「ローマの休日」の政治的側面

ちょっと疲れて面倒なことから逃げ出したいと思う時「ローマの休日」を見直す。O.ヘップバーンの清楚で可憐なイメージに抱かれて体を休めるのである。面倒なことは考えない。O.ヘップバーンの魅力なくしては成立しない映画ではあるが他の部分で気が付くことが有る。この映画は全編ローマロケで取られている。1952年に撮影されているが戦後復興を遂げつつある当時のローマの猥雑さがフィルムを通して伝わってくる。そこに生活する市民も元気である。それがこの映画に流れている裏コードのハーモニーである。メインテーマはO.ヘップバーン扮するアン王女とG.ベック演じる新聞社特派員ジョー・ブラッドリーの一夜限りの恋愛話である。それと同時にアン王女の成長譚でもある。たった一夜で・・・と言うなかれ。嘆きの壁で戦争の悲惨さのメッセージを読んだときアン王女は戻ることを決意したのだと思う。退屈な公務に嫌気がさしヒステリー状態になり医師から安定剤を打たれてから戻ってくるまで丸一日。戻ってきた時の顔つきが凛々しく侍従長他に指示する時にはもう風格さえ感じさせるのである。一瞬で変わるところはジャズ的である。最後にローマを離れるときの記者会見の場・・・。ジョー・ブラッドリーの本業を知ることになった時の二人しか分からないやりとり・・・・切ない。会見の場である宮殿を去る時に振り返るG.ベックには哀愁が漂っている。この映画なぜ全編ローマで取られることになったのか・・・。当時アメリカではマッカシー旋風が吹き荒れ赤狩りが行われていた。映画人でも何人もその犠牲になっていた。それを嫌った監督ウィリアム・ワイラーは全編ローマでとることを条件にクランクインされた。原作、脚本のダルトン・トランボは当局に目をつけられており当時は名前を伏せられていた。もう一点復興国支援という意味合いも有った。当時イタリアはまだ政情が安定せずデモやテロも頻繁に起きていた。その中でのロケである。噂を聞きつけてくる市民を管理、制限しながらの撮影は遅々として進まなかった。元々制作費が潤沢でなかったため白黒映画となり、ギャラの関係で当時は無名であったO.ヘップバーンが選べれた経緯がある。当時外貨持ち出し制限が有ったためリラをドルに換金し米国に持ち帰ることは出来ずイタリア内で投資することに使われた。そのためセット撮影部分もハリウッドではなくイタリアで撮影されている。アン王女は戦争で翻弄された小国の王室である。有効と連携を求めてヨーロッパを歴訪している。ロンド、パリ、ローマ。・・・将来のEUの発想に繋がる様な発言もアン王女はしている。それは取りも直さずアメリカの考えでもある。この映画は有名なので色々なエピソードが紹介されている。真実の口に手を入れた時にG.ペックの手が無くなりO.ヘップバーンが驚くシーンはG.ペックのアドリブでO.ヘップバーンは本当に驚いていて尚且つ愛らしい。ウイリアム・ワイラー監督はテイク数を重ねる監督で有名であったが予算の都合で比較的早く撮影が進行した。スペイン広場で二人が再会するテイクは建物の時計で相当時間を掛けた事が分かる。O.ヘップバーンがスクーターを運転して暴走するシーンは警備や諸々の制約の中で映画上3分ほどであるが6日間かかったという。そしてそのシーンでO.ヘップバーンが迷惑をかけた露店やカフェの市民にジョー・ブラドリーが会社の名刺を出し補償をするのであるが市民が誰も文句を言わず二人に握手をして帰るのである。それは取りも直さず当時のドルの強さを象徴している。ファッション的な影響も当時の日本に与えた。あのブラウスとヘップサンダルが流行し喫茶店でストローの袋を吹き飛ばす行為が流行っていた。だがあれはO.ヘップバーンがやるから許されるのであって○○がやってもただの○スである。映画が大ヒットし日本も経済力がついてくると叔母さん連中が大挙してローマの名所遺跡を訪れるようになった。だがそれは「老婆の休日」である。