選挙の行方 その2

物価高が止まらない。メーカーは選挙期間なので値上げ予告と言う形で自民党に忖度している。そもそもこの物価高はアベノミクスの成果なのである。おいおい何を言う…という方がいると思う。アベノミクスは完全に失敗しているだろう。・・・・これが庶民向けの経済政策だとすれば戦後最低の愚策であるが元々富裕層と大企業向けの政策だと考えると実にうまく行っている。給与は30年間上がらず、企業は460兆の内部留保を蓄える。それを設備投資に向ける訳ではなく自社株を買いあさり株価を上げ株主に恩恵を与える。トリクルダウンはこちらだけに滴る。日銀の金融緩和政策と相まっての円安である。投資は海外での運用となる。政府の子会社と化した日銀は世界の中央銀行が金利の切り上げを実施しインフレを抑えようとする中で一社マイナス金利を続ける。国債残高が1000兆円あるため金利を上げると利払いが発生し破綻するからだ。後は野となれ山となれといった乗りで戦時体制の様に国債を発行し続けハイパーインフレのおかげで借金がチャラになるのを待っている。もはや不況下のインフレでスタグフレーション化している。デフレからの脱却で物価上昇率2%を達成したわけでもないのにお馬鹿なテレビ局が「アベノミクス物価上昇2%を達成しました」と提灯放送を流す。物価が上がれば消費税は増加する。ただこの税金、何度も言うが社会保障には回っていない。先週のNHK日曜討論で茂木幹事長が「消費税を減税すると社会保障費を3%削らなければならない」と真っ赤な嘘をついた。NHKテレビで放送されると正しいことを言われている気になる効果を狙ったものだ。維新の吉村知事が何のコロナ対策もせずテレビに出ずっぱりになって支持率を稼いでいるのと同じである。岸田総理も当初新しい政策を出したが今は安倍総理の顔を伺う政策しか出せなくなっている。いつもニコニコしているし前の二人がひどすぎたので相対的に良く見えるが中身は一緒である。キャバレーのフロアマネージャーが使う手口である。ブスな子を二人付ける。お客さんは女の子変えてよ・・・と言うはずである。その子がニコニコしていれば綺麗に見えて思わず指名してしまい「ドンペリ1本」と言う事になってしまう。今回はそういう飲み方は控えてほしい。この選挙は思いのほか重要であると考えている。今年以上の夏がもう来ないとしたらあまりにも寂しい。
どうか選挙に行って自公、維新、国民以外に投票していただきたい。

選挙の行方 その1

新聞各社、テレビ局は選挙戦前半であるにもかかわらず与党安定多数の論調である。選挙など行っても無駄と言っているに等しい。どうか投票に行っていただきたい。そして自民公明、維新、国民以外の政党を選んでいただきたい。どの政党の政策も気に入らない所はある。日本を少しでも住みやすい国にしたいと思うならば鼻をつまんで前記の5党以外を選んでいただきたい。消費税を減税すると社会保障費が3割減るなどと言うのは嘘っぱちである。国民を恫喝しているに過ぎない。僕は年金受給者であるが消費税とは無関係に減額されている。俺にもっとよこせと言いたいわけではない。ちゃんとした政策を選択すればもう少しましな世の中になるはずである。
生稲あきこという元アイドルが東京都で立候補していて当選有力らしい。政策アンケート調査24項目無回答で憲法改正だけ賛成である。こんなおバカさんを国会に送り込んでよいのか。国民の見識が問われている。このブログを読んでいる方はlazyのライブに来てくれたことが有る方だと思う。先週の大石学と米木康志のduoは久々満席であった。リスナーの方が見識のある方だという証明である。これがドレミも判らない演奏者のライブが満席になったとしてもそういうお客さんに支えられるjazz barはやりたくない。僕には選挙も同じことのように思える。

男と女3部作

フランスの名優ジャンルイ・トランテニァンが亡くなった。91歳であった。ダバダ・シャバダバダ・シャバダバダの主題歌で始まる「男と女」が代表作である。この映画が札幌に来た時、主演のジャンルイ・トランテニァンとアヌーク・エーメの巨大看板が須貝劇場にかかっていた。キャッチコピーは今でもよく覚えている。「この映画を恋人同士で見たら帰りに貴方たちは必ず接吻をするでしょう」とあった。多分中学1年生であった吉田少年はもう少し大きくなったら必ずこの映画を二人で見て接吻とやらを経験して見るのだと誓いを立てたのだった。それから苦節…年。クロード・ルルーシュ監督の映像が美しく大人の恋物語が素敵だった。印象に残っているセリフがある。ホテルのレストランで二人で食事をする場面だ。オーダーを取り終わって下がるギャルソンを呼び戻す。「あと何を」「部屋を一つ」こんなしゃれたやり取りをしてみたいものだ。頼んだ料理も一品だけでフランス料理をオードブルから始まり魚頼んで、肉頼んで白ワイン頼んで赤ワイン頼んで・・・と思っていたが裏切られた。
「男と女Ⅱ」も制作された。1作が当たったので柳の下の泥鰌を狙ったような低劣なものではない。結局一緒にならなかった二人だが人生のある部分で微妙に繋がっている。ジャンルイ・トランテニァンには若い彼女がいる。そして彼女はアヌークエーメに嫉妬しジャンルイ・トランテニァンと砂漠で心中しようとする。女心の浅はかさと砂漠の残酷さがつづら折りになって描写されてる。映像がまた美しい。二人を必死で探すアヌークエーメ・・・。
処女作から53年後「男と女Ⅲ 人生最良の日々」が撮られた。ジャンルイ・トランテニァンは認知症を患い施設に入っている。彼の息子がアヌークエーメを探し出し連れてくる。だが昔の彼女だとは分からない。だが素敵なのはそこからだ。また恋をし始めるのである。「まだ君に恋してる」坂本冬美が流れ始める。嘘である。例のダバダ・シャバダバダ・シャバダバダ・ダバダバダ・・・が流れている。恋は若者の特権ではない。年老いても二人が素敵に描かれている。フランスの文化の違いを感ずる。
クロード・ルルーシュ監督は自分の作品の所謂本歌取りのような作品を良く作る。「男と女の詩」という作品がある。これは「男と女」3作とは直接は関係ない。宝石強盗を働いたリノベンチュラが刑務所で服役している。恩赦がでて出所し昔の彼女に会いに行くと言う設定である。だがこの恩赦は未解決の宝石強盗事件を解決するためのおとり捜査なのである。娯楽の映画鑑賞で刑務所で「男と女」を見ている時呼び出され恩赦を告げられる。刑務所から出た時にはあの音楽が頭から離れない。
娑婆・ダバダ娑婆ダバダ

エアコン

今年も暑くなると言う事で故障していたエアコンを早めに取り換えた。幸いと言おうか暑い日は訪れず今まで使う日はなかった。昨日ミュージシャンの希望で今年初めて動かした。昨年の猛暑下ライブに来てくれていた常連の人から拍手が起きた。6月15日の事である。Lazyで働いていた友恵の命日にあたる。数年前まである時期になると深夜エアコンが勝手に動き出す現象が続いたことが有る。この事はお客さんが気味悪がるといけないのであまり言ってはいない。ある霊感が強いというお客さんがここでは何かを感ずる・・・と言っていたのも思い出した。僕はああ・やっぱり友恵来ていたのだ・・・と思っていた。本当にlazyに戻ってきたかったのだと思う。まだ、私の事覚えているよね‥と言ってエアコンを悪戯していたのだと思う。
店で二日続けて「ちょっとした」事件が起きてそのことが原因で心のバランスを崩してしまった。絶対店に戻るからね。待っててパパ・・・と言うメールが時々来た。メールが打てるほど体調が良い時に。友恵は僕の事をパパと呼んだ。あだ名である。昨今のパパ活のような新語もある。誤解されるので人前では辞めてほしいと言ったが友恵は頑としてパパと呼び続けマスターと呼ぶことは一度もなかった。若い愛人出来て良いねと揶揄されたこともある。友恵が心に傷のある子だとは聞いていた。だが「ちょっとした」ことがそれほどまでの引き金になるとは想像できなかった。僕にも責任があるので辛抱強く回復するのを待った。生活保護の手続きに同行し月何回かの心療内科への通院にも付き合った。時々人前で暴れられることもあり必死で抑えたことも何度もある。薬を飲むと何事もなかったように穏やかになる。そしてケロッとして「ごめんね。おなかすいちゃった」と言うのである。少なくとも信用されている実感はあった。僕は本当に人を守ってあげたいと思ったのは友恵が最初だったのかもしれない。15年前の6月15日の午前4時半、友恵が設定まで全部やってくれたガラケー携帯に着信があった。その事に気が付いたのは15日の午後であった。電話をかけたが出ることはなかった。体調が良くない時は電話に出ないこともよくあることではあった。翌日知らない方から固定電話に電話がかかってきた。「友恵の父です」と切り出した。山梨県にいらっしゃると言う事は聞いていた。「友恵が亡くなりました」と言う言葉を聴いた時は頭の中にキーンという通奏音が鳴りだした。「いつですか」と聞くのがやっとであった。「15日の5時頃です」と聞いた時には言葉を失った。あの電話に出れてさえいれば・・・・と思うとしばらく何も手につかない日が続いた。僕もそこそこの年齢である。肉親や親しかったミュージシャンの死に直面してきた。だが友恵の死に異質なものを感じた。26歳で命を絶った子にまだ人の為に優しくなれる余力が残っていることを教えてもらった。
石垣島の砂浜で半分居眠りをしながら村上春樹の小説を読んでいる僕の傍らでせっせと小さなヤドカリを取っている友恵の姿を今でも思い出す。
もう一度エアコンを動かしに来てくれないかな・・・。

コロナと学園祭

三年ぶりの北大祭りに行ってきた。Lazyでバイトをやっている部長Uの挨拶で始まった。初めて経験する学園祭を開催できる喜びに溢れる挨拶であった。学祭に近くなったある日部員から今年はコロナ対策で入場制限をするという話を聞いた。マックス3000人で希望者はネット予約が必要でそろそろ締め切りになると脅された。まあ、自分でもできないことないだろうが部員kに全日朝一から行くと言う事で三日分予約してもらった。開催日の前日実行委員会から予約確認のメールが届いた。予約番号、注意事項が列記されていた。身分証明書を持参すること、滞在時間は3時間、指定された門から入場すること・・・かなり厳密にチェックをする感が漂う文面であった。入場できる門と時間が指定されていた。北8条の正門であった。Jazz研の演奏場所は北18条の教養棟。僕は北24条に住んでいるので演奏場所を横目で見ながら正門まで南下しなくてはならない。そして又18条まで歩く。そこそこの運動量だ。正門をくぐると受付があった。入場のチェックを受けている。長蛇の列ではないがスマホと免許書を出して待っていた。受付が終わると制限時間の書いてあるリボンを渡された。最大3時間の滞留時間である。見ているとそこを素通りして入る人間も居る。最初は関係者なのだろうと思っていた。演奏会場に着くと部長のUが出てきてスタッフ証を首にかけてくれた。「見回りもあるのでこれが有れば3時間を超えても大丈夫です」との事だった。見回りと言う言葉にゲシュタポの様な密告社会の匂いを感じた。なぜこんなことを長々と書いているかと言うとある種の疑問が湧いてきたからだ。帰る時18条口から出たがスタッフは誰もいない。帰った人数は把握できていないという事である。残りの二日間は22条の獣医学部の入り口に行ってみた。誰もいない。普通にそこから入った。覆面パトカーが茂みから出てきて検挙されることも無かった。善意の住人が犬の散歩やらジョギングやらでどんどん構内に入ってくる。実行委員会の入場数制限は「やっている感の演出」であったのだ。オリンピック時の政府のザル水際対策を想い出した。実行委員会は大学当局からコロナ対策はどうすると聞かれたはずである。その対策がこの方法であったのである。北大は政府から言われて独自の基準を作り部活なども制限していた。密を抑えるのか人流を抑えるのかはっきりしない対策が政府、大学とリレーされた。それを学生たちが見逃すわけがない。ああ、あの程度でいいのね・・・と思う筈である。学生たちを責める気は毛頭ないがこういう手口を覚えて社会に出ることを危惧するのである。
老婆心からである。
「老婆は一日にして成らず」

腹立ち日記vol21 年金通知

年金機構から年金通知が届いた。年金減額通知である。支給額そのものが又減っているし控除されている介護保険料と国民年金負担額は増えている。支給額は物価スライド制で昨年までのデフレスパイラルと賃金上昇率にリンクしている。賃金上昇率はOECD国の中で最下位である。雇用形態を非正規労働者に変えてきた付けである。収入は減り、社会保険料は上がり、物価も上がり続けている。日銀の黒田総裁が「国民も値上げに適応してきたのではないか」と発言した。馬鹿も休み休み言ってほしい。あなたの誤った金融政策のせいで何でこちらがヒイヒイ言って生活しなければならないのか・・・。
僕は20年会社員として働いた。社会保険料は会社と個人がほぼ同率で積み立ててきた。それでも支給額は雀の涙ほどである。国民年金だけの人は想像に難くない。若者にもジジババの為に社会保険料を払いたくないでしょう・・・と言って分断を図る。日本はいつからこんなに国民に優しくない国になったのか。そうです。中森明菜も歌っている。「坊ちゃんA」が上座に座りだしてからである。桜問題もまだ解明されていない所に新しい事実が判明した。サントリーが数年にわたり飲み物を無償提供していたのである。サントリーもビールをはじめとする酒類の値上げを発表している。総理にはただでふるまうが国民には「苦い汁」は吸わせないと言う事だ。折しも第三のビールの税率を上げるあげないで議論されていた時期とぴったり重なる。開高健が草葉の陰で泣いている。

街角情報室vol6

店に来る時の事だ。一羽のカラスが小枝らしき物を咥えて追い越していった。かなりの低空飛行である。ある電柱に舞い降りた。しばらく小首を傾げ思慮しているように見えた。するとそのカラスは向きを変えると隣の電柱に飛んで行った。そこには作りかけの巣があった。どうやら電柱を間違ったらしい。僕はしばらくその巣を見上げていた。一瞬カラスと目があったように思えた。「カア」と一声鳴くとカラスは舞い降りてきて僕の頭近くを掠めていく。「何見てんだよ、カラスだって間違えるんだよ。団地住まいのお前らだって酔っぱらって隣の家のインターホーン、ピンポーンと鳴らしたことあるだろうよ。みっともないから言いふらすなよ」と言ったのだと思う。
同じようなことを経験したことが有る。北大jazz研の定期演奏会を聴きに行った時の事だ。ステージの転換時にウトウトしていると「海老蔵」と呼んで僕の頭を叩く人間が居た。海老蔵の様な頭をした部員がいるのだ。僕も海老蔵と結果的には同じような頭になっている。僕は振り向くと「海老蔵はそこだよ」と指さし教えてあげた。間違えた部員は一瞬固まると「カア、カア」といって立ち去った。たぶん「すいません、申し負けありません」と言ったのだと思う。

物価高を憂う

物価高を憂う
毎日スーパーに行っている。店で使う物と自宅用の食材を購入するためだ。僕は外食をほとんどしないし出来合いの惣菜も買わない。一日二食一から料理する。ちゃんと食べて寝れば大体健康と言う宗教を信仰しているからだ。それで色々なものがどんどん値上がりしているのが手に取るようにわかる。昔から値上がりしないのは卵とjazzミュージシャンのギャラだけと言われている。いや、道内の鳥インフルの影響で卵でさえ値上がりしている。秋刀魚が高級魚に変身しイカゲソがその足全部にシャネルのストッキングをはいているかのような値段で店頭に並んでいる。(因みにイカをフランス語で言うとasijepon。蛸はasi hapon)新聞には明日から値上がりするものの品名が列記されている。そして折からのウクライナの戦争。原材料の高騰も始まっている。消費者に価格を転嫁できない中小企業は苦しい。賃上げは見送られその従業員の生活はじり貧である。アベノミックスを援護射撃するために日銀は低金利政策を続行し物価上昇2%目指しデフレスパイラルから脱却するとした。これが全く違う状況で成立してしまった。デフレからは脱却できず不況下のインフレ・・・もはやスタグフレーションである。
だがこの状況は日本の経済政策の誤りによるところがある。アベノミクスの矢のうちの一本。異次元の金融緩和政策。先進国が金利を上げていく中で日本だけが低金利のままである。上げられないのである。上げると500兆を超える国債の利払いが発生し経済破綻が顕在化してしまう。元々株価維持のための低金利政策が日本経済の命取りになっている。何のための株価維持か・・・好景気を装うためである。だがその取扱高の60%が海外投資家によるものである。収益の60%を海外に移転しているだけである。安倍元総理は最近も「日銀は政府の子会社」と言う発言をして物議を醸し出している。国債の償還期限が来たら紙幣を刷ればよい・・・と堂々とアホな意見を開陳している。一国の総理が経済学のイロハさえ知らない。ドミソも知らないでジャイアントステップをやるようなものだ。
金利を上げないと良いこともあると黒田総裁も発言している。円安基調になり輸出産業には好材料だ。トヨタは過去最高の高決算を迎えている。しかし輸出産業のGDPに占める割合は10%程度である。輸入食材は値上がりするか見るからに小さくなっている。毎日スーパーに行っていると判る。国会で黒田日銀総裁に「スーパーに行ったことが有るか」と質問した議員がいた。答弁が「かつてスーパーと言うところにも行ったことはある」であった。もはや殿様である。庶民感覚など分かるはずもないだろう。
岸田総理の「新しい資本主義」も馬脚を現している。当初分配論の要素もあったが今は完全に自己責任論に変質している。「所得倍増計画」は「資産所得倍増プラン」であって金のない人には関係ない。「金のある人は自己責任で株にでも投資して増やしてください。手っ取り早い方法には競馬。競艇もあります。いずれ大阪にカジノもできます。一瞬で10倍になることもあります。運が良ければ・・・・お金の無い方・・・はそうですね・・・自己責任で何とかしてください。まず無駄をなくしてください。Jazzのライブなど生産性のないものにはかかわらないでください・・煙草は辞めてください。少なくとももらい煙草でしのいでください」と言う事になる
円安株高はシャブの注射を打ち続けるようなものだ。ちょっと前に外食産業の社長が「田舎から出てきた娘を薬漬けにする」発言でマスコミから叩かれていた。日銀や政府が国民をシャブ中にするのはお目こぼしになるようだ。

格付けチェック

月末の野暮用で町の中心部まで自転車で往復した。いつも北大構内を走る。信号もないし車も殆どいない。今の季節、樹木が繫茂していて実に気分が良い。国際交流センターの壁に「10位にランクされた」・・・というポスターが張られていた。少し前道新の記事で読んだことが有る。2022年度、世界の大学社会貢献度で凡そ1000大学の中で10位にランクされたという話だ。SDG’sの達成に向けた取り組みを点数化して順位付けしたものだ。北大は広い北海道の農業実態を考慮したうえでスマート農業など新しい取り組みを発表している。地元の大学が評価されると言う事は嬉しい事でもある。だが・・・・・
北大は企業人事担当者から見た大学イメージ調査2021年度ランキング1位でもある。大学の募集要項にも「起業家を目指す学部生へのキャリア教育を試行」と明記してある。いつからだろうか・・・・大学が「稼げる大学」を目指さざるを得なくなったのは。産業界からは即戦力となる学生の要請を文科省経由で求められる。研究成果を出さないと研究費を削られる。産業界からは連携包括協定なるもので研究費援助を餌に金になる研究を迫られる。国からの交付金は年々減らされ先進国の中では最低である。ネイチャー誌に発表される論文数も毎年減少しているし博士号を取得する人数も減っている。それだけでは食えないからだ。高等教育でもAKB化、エグザイル化が進んでいる。そんな中での北大の格付け上位ランキングである。構内を走ると色々な商業施設が目に付く。北大は札幌の観光名所でもあるからだ。今の学長宝金さんになってから新聞紙上で企業との連携包括協定の記事をよく目にする。学長は構内にホテルを建てる構想があると言う。以前札幌ドームの候補地にもなった。絶対にやめたほうが良い。あの広い敷地が疑いなく知的活動に良い影響を与えている。大志を抱こうかな・・・と言い気になる。僕はlazyでjazz研の部員を通して北大生を定点観測している。皆優秀である。少なくともそう見える。大学受験もそうであるのかもしれないが、ある種の格付けテストが有れば最小の労力で其れをクリアしようという能力を身に着ける。要領が良い、とか小賢しいとか言って揶揄するつもりは全くない。
国のトップが「今だけ、金だけ、自分だけ」と言う人物であれば教育にもその思想がジワジワ浸み込み学生もその生簀の中で上のランクに入ろうという発想になる。

言語が違えば世界も違って見えるわけ ガイ・ドイッチャー著

前奏曲
英語では「あなた」に相当する言葉は相手が大統領だろうがjazz barのマスターだろうがyou
である。Thyというシェークスピア時代の古語はあるが置いておく。汝は・・・とかそなたは・・・というニュアンスだと思う。ところが日本語は「あなた」「あなた様」「君」「お前」「お前さん」「貴様」「てめえ」「おんどりゃ」「おぬし」など相手との関係性によって使い分けている。
話は変わる。欧米人には「肩こり」がない。という議論がある。以前カナダ人のマークに聞いたことが有る。肩こりは英語でなんという・・・答えは「shoulderache」であった。これは明らかにニュアンスが違う。コリは痛みとは違う。Stiff shoulderという近い単語はある。だがその時のマークは肩こりを知らないと言う事になる。
話は中国に飛ぶ。「中国には従妹はいない」と言うと全員そんなことはないと言うはずだ。だが中国語には従妹という普通名詞はないという。父方、母方、父母より年が上か下か・・・などですべて名称が違う。儒教の影響で親族に関する語彙が豊富だ。
日本は四季がはっきりしている。それで草木の色に関する語彙は豊富だ。例えば赤。赤、朱、臙脂、深紅、茜色、薄紅色、珊瑚色、薔薇色・・・言葉を聞いただけで色合いが思い浮かぶ。
この感覚はシベリアに住むロシア人にはわかってもらえない話だ。
英語では牛はオスとメスで違う名詞になる。それは牧畜文化による。こっちにすれば焼肉にすればどうでも良いのでは・・・と思うがローハイドに出演していたクリント・イーストウッドの前では言いにくいセリフだ
第一楽章
この長いタイトルの本は言語学の学術書である。長いが難解ではなく色々な例が豊富で本当に面白い。チョムスキーの有名な主張から始まる。火星人の科学者から地球を観察したら地球上のすべての人間は単一言語の諸方言を話している。この状況は映画「ET」を思い浮かべると何となく想像できる
第二楽章
海は葡萄色だ・・・と言われたら、おいおいちょっと待てよと言いたくなる。ホメロスの「ホメロス」と「オデッセィア」に出てくる。ホメロスの色彩感覚がおかしいと言う事でグラッドストーンという学者が全著作「色」に焦点をあてて調べた。「青」という表現は1回も出てこなかったという。海中の藻と海の色で葡萄色に見える瞬間がある・・・とかホメロスは色弱だったとかいろいろな仮説を立てた。どれも整合性がないのでギリシャ時代には青色のワインがあったはずだという仮説を立てワインに色々な物質を混ぜ青色にしようとしたが納得できる結果が得られなかった。学問というものはある種の狂気を含んでいる。感覚的にはシンデレラの物語で王子様のお妃になりたくてガラスの靴に無理やり足を入れようとする女性の心理に似ている。因みに一番多く出てくる色は白と黒である。
第三楽章
weという単語がある。私たちと訳される。英語でも日本語でも私が入っていれば全て私たちである。彼女と二人でいたとする。「私たち幸せになろうね」と彼女が言ったとする。僕と彼女の問題で隣の部屋のおばちゃんは関係ない。ところがあなたと私の二人だけの場合ジフト語では「キタ」という。何人か部員のいるJazz研の部室で「私たち明日lazyにライブ聴きに行きましょう」といった「私とあなたとほかの誰か」を意味する場合「タヨ」という。あなたと私以外の誰かの場合の私たちは「カミ」という。その全部を「we」いう一語で間に合わせるのはお前たちの言語は大雑把だと笑われたという。
第三楽章
左右の概念がない言語もある。ソースの左側にある醤油を取ってもらおうとする。
「ソースの北側にある醤油をとって」と言わなければならない。自分の家でなら東西南北は分かるかもしれない。他の家、ほかの街、ほかの国に行ったらまさに右も左もわからなくなるのではと思うかもしれない。それが素人の赤坂というものだ。その民族はどこに行っても東西南北が分かるらしい。こういうのを絶対位置感というのだろうか。
エピローグ
何せ厚い本なので全部はまだ読み終えていないがこの種の固定観念をぶち壊されるエピソード満載である。そして話を膨らませる。「言語が違えば音楽も違って聴こえる」と言う仮説を立ててみよう。この事は日本人のミュージシャンと付き合っている時にも感じていたがフランス人のマキシムのピアノを聴いた時確信した。リエゾンやアンシェルマンした時のフランス語に聴こえるのである。