今回の執筆者を紹介する。lazy のピアノの調律をお願いしている渡辺さんである。lazyのピアノは評判が良い。大石学は「このピアノなら何でもできそうだ」と言ってくれたし田中菜緒子は「この調律好きです」と褒めてくれた。渡辺さんが演奏家に寄り添う形で真心こめて調律してくれているからだと思う。このピアノを選んでくれた田中朋子さんは新アルバムを制作する予定になっているがここのピアノを使って何曲か入れたいということで7月に録音予定が入っている。
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幼少からラジオの日々で、次々とチャートインする”The Beatles”のシングルを、LPで出ることも知らず楽しみにしていた。♪青春時代の真ん中は、LPを買えるような家庭事情ではなかった故に、時期をTeensとせず20代迄とした。今は中期高齢者となり、昔話と思い入れと自慢話には事欠かない。
1) 「モーツァルト 交響曲第40番ト短調」
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 (1959)
中学の級友に自宅でレコードコンサートをするからと誘われて聞いた、大きめの木箱が3つ床に並んだセパレートステレオ全盛の時代。クラシックにのめり込むキッカケになったレコード。記憶に合うジャケットが見つからず、イメージに近い画像にした。
2) 「チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 悲 愴」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団 (1960)
この演奏が自分の標準器。曲としては、1小節聞いただけでも分かると思うほど聞いた。
3) “Jazz for a sunday afternoon Vol.1” (1968)
ラジオでジャズ番組も聴き始め、公開録音でリクエストして採用された。レイ・ナンスのヴァイオリンやリチャード・デイビスもいい。この頃、番組のテーマ音楽を諳んじられる程に毎週聞いていた”ナベサダとジャズ”も市民会館ホールで公開録音があり、校友何人かと行った。そこで板橋さんを生で聞いて半世紀超。楽屋には行かなかった。後年、南パークビル地下の”ニカ”での渡辺貞夫のライブは凄かった。 途中から客全員が踊りだして、椅子やテーブルを店外にバケツリレー。
4) “Weather Report” Weather Report (1971)
校舎前の電柱に公演のポスターが貼ってあった。北海道厚生年金会館ホールに聴きに行った。緞帳が昇ると、お香の匂いが客席に流れ降りてきた。自分達も含め、後ろの席からステージに向かってどんどん人が集まって、♪上野発の夜行列車の通路状態。M.ヴィトウスのArcoの音程が悪かった。裏口で出待ちして、ウェイン・ショーターと握手して、ザヴィヌルにもサインを貰った。WRは何枚か集めた。仲の良い友人は否定的だった。
校友とスイングジャーナルの記事やレコード評を語り合うようになった。広告で知った京都の”シャンクレール”に、民家の庭の影で学ランから私服に着替えて入った。北大通7丁目中小路の地下の店 ”コンボ” でジャズのライブを初めて聞いた。山一に入った臼田さんのベースと、名前を失念したけど、後にYAMAHAの仕事をするようになったピアニストの”Billy Boy”が耳に残っている。ススキノの恵愛ビル地下の ”Monk” で北大ジャズ研のドラム、藤田さんと知り合う。学校帰りは市電に乗り、北12条電停で降り(この頃は前夜の催涙ガスを感じることは無くなっていた)、第三サークル会館1階奥の部室に遊びに行くようになった。ちょっと年上の伝法さんや笹島さんも来ていた。そこでは碇さんが指導していたビッグバンドの練習も聞き、市電が山鼻へ向かう角のビル地下”樹林”でのライブも聞いた。皆、大人に見えた。
この時代は、終演後の楽屋に行ってみるのは当たり前だと思ってた。数年前にCDで発売されたけど、1970年に札響と共演した来日初演のマルタ・アルゲリッチも校友と楽屋を訪ねてプログラムにサインをもらい握手した。♪微笑み返しの彼女は29歳。椅子に座って組んだ足、そのストッキングの長い伝線が目に焼き付いた。
5 ) “On The Corner” Miles Davis (1972)
このレコードはいつ聞いても新鮮。マイルスは “Kind of Blue” (1959)をラジオで聞いて知り、遡りつつ辿って “Agharta” ”Pangaea”の1975年のツアーで追いつき、WRと同じ会場で聴いた。リハを袖で見てたが全く姿を見せず、本番で彼が出ると一瞬にして変わる空気を客席で吸った。どのLPだったか、「再生装置のヴォリュームを最大にして聞け」と記されていた。’49、’59、 ‘69があるのだからと、’79を期待した。自分の中では’75で終わった。
6) “JR Monterose – Is Alive In Amsterdam Paradiso” (1969)
向ヶ丘遊園駅からほど近い”ガロ”に通った。マスターが渋谷のYAMAHAで買ってくる新譜LPを楽しみに聞いた中の1枚。Han Bennink のドラムが好きで、ピアノレスが新鮮だった。東京では”新宿ピットイン”の昼に行ったり、下北沢の猿がいた”マサコの店”で床に座りながらマイルスの新譜を聴いた。
7) “Sugar Loaf Express Featuring Lee Ritenour” (1977)
この当時はドルフィーやオーネット・コールマン(生でKitaraで聞けると思わなかった)を好んだり、来札する中央線ジャズとか山下洋輔さんとかライブハウスで聴いていたんだけど、リー・リトナーは知らず、原盤ダイレクト・カッティングで限定3万枚の宣伝文句で買ったら当たりだった。全員せ〜ので一発録り。この軽味、聞き返すごとに味が出てくる。
8) “The Secret Life Of Plants” Stevie Wonder (1979)
これは科学映画のサントラ。欄の花のエンボス加工も洒落ている。西城秀樹が「愛の園 (AI NO SONO)」をカバーしている。周りの誰もがあのLP2枚とシングル1枚セット”Key Of Life” (1976) を買っていると東京に行った八千代が言ってた。自分も ¥5,000出したが、その値以上だった。
9) “All ‘n All” Earth Wind & Fire (1977)
「太陽神」なのである。カセットに入れて、同僚の車に乗せてもらって、スキーの行き帰りに大音量で楽しんだ。
10) ”The Spiritual” Art Ensemble of Chicago (1969)
世界観にハマって何枚か集めた。市民会館に聴きに行った。東映仲町のエルフィンの洋さんも来てて、皆でステージ前へ。愛聴盤のブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」に繋がり、SAVARAHレーベルのCDを集めた。後年、憧れのピエール・バルーが中村善郎との縁で、石狩の”Art Warm”に来たので聴くことになる。
11) ”Friday Night at the Village Vanguard” Art Pepper Quartet (1977)
東映パラス地下の”Jamaica”で初めて聞いたと思う。きっかけとして、60枚くらい集めた。ジョージ・ケーブルスから入りラス・フリーマンに着地。Tampa盤の2枚が好き。トリオ・レコードから出たエルビンとの45回転LPは、Groovy時代のマスターから頂いたような・・・。1981年、市民会館の楽屋でツーショット。その時の音声も演奏もカセットに残した。
12) “ Quatro Grandes Do Samba”
Nelson Cavaquinho Candeia, Guilherme De Brito, Elton Medeiros –(1977)
中南米も大好きなので、タイトルに惹かれたが、その通りの名盤。
13) “Cobilinbo” Monty Alexander (1978)
スティールドラムの響きも爽やかで、ギターのカッティングと相まったカリビアンサウンド。夏になると聞きたくなる。
14) “My Song” Keith Jarrett (1978)
ケルン・コンサート(アンコールが一番好き)からなんだけど、これが一番聞いた1枚。後に”サン・ベア・コンサート”の収録となった演奏をステージ袖で聞いた。
15) “Tristezas De Un Doble A” Astor Piazzolla Quintet 1981
日曜昼前の目覚ましFMから突然流れてきて飛び起きた。”マルビナス”戦争の少し前だろうか、テアトロ・レヒーナでのライブ。SP盤名残りの3分じゃない、こんなインプロビゼーション・タンゴがあるんだと集めだした。エクトル・コンソーレのアルコにもやられた。1984年の来日時、家人一人で芝の郵便貯金ホールに行き、楽屋に押しかけジャケットにサインを貰い、ユーカラ織の栞を手渡してきた。自分としては、このレコードと同じ劇場で違うメンツのキンテートによる1970年盤の二枚に尽きる。”Piazzolla”を演奏できるのは彼しかいない。
百合が原公園でのジャズフェスだったろうか、ゲイリー・バートンのバンドにゲスト参加してたのを聴きに行った。やはりというかヴァイブが邪魔だった。無関係だが、ジョアン・ジルベルトが国際フォーラムAに来たときは私も家人と行き、5,000人の聴衆と共に固唾をのんで聴いた。久しぶりにガットギターを手に入れて楽しんでいた。何処かの誰かにアルハンブラを弾くのかと冷やかされたよ。
16) ”One from the Heart” Tom Waits and Crystal Gale (1982)
あの”ジャブ70”でNastassja Kinskiに出会って一目惚れ。コケたのかもしれないけど、コッポラの傑作に違いない。そのサントラ。カセットに入れてもらって覚醒して、CDも買ったけど、このLPはタワーレコードで見つけたままの未開封。トム・ウェイツが札幌に来たことがあると知り悔しい思いをした。ステージではタバコの煙が絶えることが無かったとか。
※ 付記した数字は録音もしくは発売年
※ ジャケット画像を収めたGoogle photoのアルバムへのリンク
https://photos.app.goo.gl/7WKfVHEPjX9YyQbK9
青春時代は、オヨヨ通りから都通の間、特に5丁目界隈で殆ど完結していた。今思えば、輸入盤レコード店が出始めて間もなく、CDも発売され出した頃で何かがお終い。残滓も後の観覧車で放り投げられたみたいだ。米国からジャズのフィルムコレクターが映写会をするというので、道新ホールに行った。Art Tatumや本家Jo Jonesがスクリーンに写っているのを見て、動いている動いているとワクワクした。YouTubeなんて思いも寄らない。1982年10月にQueenがスタインウェイのフルコンを持ち込んだ月寒共進会場も、市民会館、北海道厚生年金会館、道新の各ホールも今は無い。最後に、♪少しカッコつけさせてくれ、 “When you hear music after it’s over, it’s gone in the air, you can never capture it again.” E.D.
Master’s comment notice
アルバム画像の挿入がうまくいかないのでとりあえず文章だけのアップになってしまった。ジャケットを眺めるのも楽しいのでリンクサイトも見ていただきたい。
やはり1.2枚目はクラッシックである。渡辺さんとは同世代なので出てくる固有名詞に郷愁を覚えた。キース・ジャレット、アートアンサンブルオブシカゴ、ピアソラ、ウェザー・リポート・・・渡辺さん。同じコンサート会場にいたんだ・・・と当時のことが脳裏に浮かんでくる。蛇足かもしれないが最後のセリフはE Des・ハンソンのものではない。