Wayne Shorter『Super Nova』

名盤・迷盤・想い出盤
このアルバムを聴くのは久し振りぶりだった。年を取ると5年や6年は”久し振り”とは言わない。二桁に突入してしまうのだ。気が付くと疎遠気味になっていたこのアルバムを何故取り出して来たかというと、古い話になるが、ジャズに熱心でなかったある人物がこの『Super Nova』を凄いと言って、夢中になって聴いていたのを思い出したことによる。これは殆んど怪奇なことなので覚えている。この企画に乗っかったお蔭で、ジャケットの引っ張り引っ込めの動作が以前より増えた。すると内容とは直接関係のない「あの日あの時」的な事柄どもがちゃっかり息を吹き返すことがある。”ある人物”の件もそれに該当する。それはともあれ、今このアルバムについて何か申し上げねばならず、早速苦境に追い込まれている。ショーターについては、60年代のマイルス・クインテットやそれと並行してリリースしていたリーダー盤を聴く機会は結構あり、またライブでもこの人の名曲が演奏されことが少なくないので、その意味で”久し振り”さは全くない。では苦境に追い込まれるのは何故なのか。よく彼は「黒魔術的」と評されるが、筆者は「黒魔術」なるものを知らないし、ショーターの神秘性を高めるための修飾ぐらいにしか思っていない。敢えて言えば、他の誰も持ち合わせていない作風を生み出す主(ぬし)らしいことは間違いないという感じだ。”他の誰も持ち合わせていない”とは独創的ということだが、筆者はその独創性の出どころに恣意的に思い巡らそうとしている。この『Super Nova』が録音されたのは1969年である。世界中で既成の価値観を問い直すムーブメントが起こる混沌とした時代と言われている。その混沌とした時代の共通語として例えば”ラジカル”という言葉があったように思うが、それの象徴的一語もやがて流行語化の道を辿ると、その生命力が失われてしまう以外に行先はなくなってしまうように思う。いまその混沌の時代とショーターの関係に遮二無二焦点を合わせようとしているのだが、その時代はショーターが影響されたとされるコルトレーンの没後2年ぐらいのことである。漠たる思いだが、彼はコルトレーン的なるものを更に先鋭化しようとは思わなかったに違いないのだが、このことはコルトレーンに見切りをつけたということを意味するものではない。様々なジャズに接していると、自身の表現力に磨きをかけ続け、そして人々に感動を送り続ける才人に出会うことができる。その中には時代を動かすことのできる能力を併せ持った才人がいる。ショーターはその一人であろう。彼の感性は古着(伝統)を着こなしながら、同時にそれをニュー・モード(変革)に連結させる離れ業をやってのけている。どうやら筆者が言いたいのは、普通であれば人が時代に多くを制約されてしまうところ、ショーターの場合は彼自身の手によって時代を補正したのではないかということらしい。いま普段使わない脳を煽ったせいで、我がアダムス・アップル周辺がカラカラに乾いてきた。これ以上なす術がないので、『Super Nova』について何んか言っておこう。この作品はブラジル色が立ち込めているが、1曲目の標題曲はショーターの激情的演奏に加え、ドラムスとギターが緊急事態の発生を告知するようで、聴く者を一種の焦りに包み込む演奏となっている。『Super Nova』にハマル者はこの曲で必殺状態にされるのだと思う。また、3曲目にジョビンの名曲「DINDI」が配されているが、歌のMaria Bookerが最後には泣き出してしまう異様な瞬間がある。後にショーターとこの人は結ばれるという話だ。これは公然と泣き落としに成功したハチの一刺しと言うべき名演中の迷演である。今回ショーターのことを考えていて筆者の盤面がスリ減ってきそうになっている。暫くはショーターからスーパー野放しになっていたいものだ。
(JAZZ放談員)
Master’s comment notice
このアルバムは聴く人の感性を試す。1曲めのショーターのたたみかけるようなソプラノと奔放なバックの動きをこの人たち何してるのだろうと指をくわえて聴いていた。新しい・・・でもそれを的確に言い当てる事が出来ない知的脆弱さを感じていた。だがここに出てくる”ある人物”の様にすんなり受け付けられる人もいる。聴く側にある種の分断を産むアルバムである。