例えばドミノ辞任

葉梨法務大臣が辞任した。ちょっと前山際大臣が辞任したばかりである。新聞の見出しは「辞任ドミノ」であった。辞任の経緯については別の機会に譲る。このドミノ辞任という言葉の選択には誰もいちゃもんは付けなかった。
ハロウィーンの日韓国の梨泰院の惨事は「群衆雪崩」と命名されていた。ここでも事故の内容についてはさておく。ああ‥人が将棋倒しになったのだなあ・・と思った。なんで「群衆雪崩」などと変な用語を使うのであろうかと思っていた。遡る事2001年、明石市の花火大会で歩道橋に大勢の人間が殺到しそれこそ「将棋倒し」になり死人が出た。当初新聞の見出しも「将棋倒しでxx人死亡」であった。ところがこの表現が新聞、テレビから消えた。日本将棋連盟からクレームがついたと言う事だ。当時の連盟会長は二上九段、羽生九段の師匠にあたる。現役時代は大山15世名人の全盛期と被り才能の割にはいまいち活躍しきれなかった。だが二上会長は誠実な人柄で人望があった。その会長からクレームがついたので新聞業界が「将棋倒し」という言葉の使用を自粛したのか。ではこの時「ドミノ倒し」であったならどうであったか。ドミノ協会は存在する。だがクレームは付けなかった。ドミノ倒しで死人が出たことがドミノのゲームのイメージを悪いものにするとは思わなかったかクレームをつけても無駄と思ったのかのどちらかだ。では何故将棋連盟の言い分が通ったのかだ。将棋連盟は新聞業界に影響力がある。各紙がスポンサーで棋戦を主宰してその棋譜を新聞に載せている。僕が購読している道新には王位戦が掲載され今、時の藤井聡太の棋譜が毎日掲載されている。僕が最初に目を通すところもそのページである。棋譜は激減している新聞の発行部数を持ちこたえさせている一要因である。要はマスコミはスポンサーやうるさい組織団体には忖度すると言う事である。今新聞の最大の広告主は政府である。知りたい情報はほとんど新聞には掲載されていない。上層部の判断で撥ねられるからだ。
まあ、「将棋倒し」が「群衆雪崩」と言い換えるくらい大目に見ても良い。だがこの事と「全滅」を「玉砕」と言い換えることの距離感は同じであると認識しておいた方が良い。
1993年筒井康隆の作品「無人警察」で癲癇の記述が差別的であると日本てんかん協会から抗議を受け交渉したものの決裂し筒井康隆は絶筆宣言をした。表現の自由を守る事と差別を考える事の間にあるルビコン川を意識した事件であった。