1月17日で阪神淡路大震災から30年目を迎えた。この頃の事は全く個人的なことで記憶が鮮明である。まだ会社員であった。震災の2日前季節外れの人事異動で東京経理財務本部に転勤を命じられた。寝耳に水の話である。その頃ある不正にかかわる事案を内密に調べていた。この人事異動はそれ以上深入りするな・・・というメッセージに思えた。会社員たるものどこに飛ばされようが覚悟はできているが余りに・ロドリゲスな異動であったので辞表を提出した。だが上司預かりにされ2,3日休んでよく考えるように諭された。その頃は会社には内緒でGroovyには関わっていた。そこに御用組合の幹部が僕の動向を探りに来ていた。会社にはばれていることが分かった。自宅には色々な関係者から「辞めるのは何時でもできる」とか「店次長の顔を立てろ」とか電話が鳴りやまなかった。そんな中神戸の変わり果てた街並みをぼんやり眺めていた。廃墟の中で燻り続ける煙、ひしゃげた高速道路、そこから宙づりになっている車、グループの稼ぎ頭である神戸店の映像も映し出された。壁がはげ落ちている。その頃会社は経営が悪化しており神戸店の損害はそれに拍車をかけることになるのだろうなと考えていた。実際その時の人事異動は再建策と言おうか撤収策を策定する部門が人手不足と言う事での方策であった。結局周りに逆らえず何日か後東京に旅立つこととなった。被災地では6千余人も方が亡くなられているのに落ち着くまで赴任は延期されるのでは考える利己的な自分を想い出すのである。長いイントロになった。あの震災が契機となりボランティア活動の在り方が問われだし政府の復興支援の在り方も顕在化していった。避難所のダンボールの仕切りで雑魚寝は最早風物詩となっており何ら改善されていない。能登半島地震から早一年、避難所の雑魚寝状況は30年たっても全く同じ光景である。一部の観光地は復興をアピールしているが一歩田舎に入れば水道さえ復旧しておらず潰れた家屋は放置されたままである。政府の考え方が見えてくる。田舎に行政サービスを提供するのは無理です。コスパが悪いです。・・皆さん都会に移り住んでください。国家は会社か。何処かのアホ総理が「美しい日本」とか言っていたがどこが美しい。地震に関しては全国民が明日は我が身である。