原爆が落とされたかもしれない都市、新潟

8月15日戦後80年を迎える。戦争を知っている人間がいなくなった時次の戦争が始まると卓見を述べたのは田中角栄である。僕が小さいころ周りには戦争を経験している人間が大勢いたし兵役を経験した叔父もいた。だがあまり戦争の話しを聴いたことがない。今考えると皆口を噤んでいたのではと思うのである。広島、長崎に原爆が投下され日本政府は降伏を決めた。戦後の資料で小倉、新潟も投下候補地になっていたことは知られている。だが原爆疎開が新潟で行われていたことはほとんど知られていない。当時の新潟知事畠田昌福は内務省から派遣された官選知事である。当時の内務省の考えは混乱を招くだけという考えで疎開には反対であった。畠田知事はなぜ市民を疎開させる考えに至ったのか・・・。当時日本は朝鮮半島、中国大陸を支配する国であり行き来の重要な都市が新潟であった。米軍は都市部を爆撃するのではなく港に機雷を落し船舶を爆撃したという。都市部が爆撃されない事実と近郊の長岡市に一発だけ爆弾が投下された事実から次は新潟だと判断した。長岡に投下された爆弾はパンプキン爆弾と呼ばれる原爆投下訓練用の爆弾である。政府の考えに抗って市民を疎開させる英断をした知事が当時にいたことに驚く。この当時の資料はほとんど残っていない。畠田知事も70年代に亡くなっている。畠田知事は戦後横浜市の公職につきある公園を作った。それが有名な「港が見えるガ丘公園」である。そこから見える風景は新潟港に似ているということだ。

付記
私事で恐縮であるが最初の関東勤務の会社員時代千葉の市原から時々港が見える丘公園に行っていた。そこからの景色は小樽にも少し似ている。