内田樹の文章に『旦那芸について』と言うのが在った。内田樹はもともと仏文学者で、もと大学教授でもあり自分で合気道の道場も運営している文武両道の方だ。趣味で能を習っている。その能の立場を旦那芸といっている。
自分がそもそもどういう技能を習っていて自分はこの芸能の「地図」のどのあたりに位置しているか、構えて言えば芸能史に於ける己の歴史的役割はなにかと言うことがわかってきたあたりという。こういう自己認知のしかたを「マッピング」と呼び自分自身を含む風景を上空から見下ろしてみるという事である。そうやってみてわかったことがある。それは自分がしているのは「旦那芸」だということらしい。
一人のまともな玄人を育てるためにはその数十倍の『半玄人」が必要でそれは必ずしも弱肉強食ということではない。「自分はその専門家にはなれなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難でありどれほどの価値があるものかを身をもって知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かしその専門知を深め、広め、次世代につなげるために不可欠だと言うことだ。
これは僕が普段jazz業界に感じていることと一致する。
『旦那」は『裾野』として芸に関与する人のことである。年に数回」演奏するときの僕はまさに『旦那芸」である。
僕はjazz聴いてる歴は45年、jazzの店もやっている。風貌もラリー・カールトンやマイケル・ブレッカーに似ていないこともない。そうするとさぞかし楽器もうまいのだろうと思われがちだ。ほんとうに困ったことだ。
誰しも10周年にlazyで演奏してもらった演奏家のレベルにはなれない。全員が玄人である必要はない。すばらしい芸を見たときには感服する余裕は持ちたい。
締めの言葉はそのまま引用させてもらう。
私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身のほどを知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果たす役割を自得するすることである。「身の程を知る人間」は己の存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく自分が属する集団が成し遂げたことを通じて考慮する。
それができるのが「大人」である。
私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。
僕もそう思う。
性別に関係なくそういう「半玄人」を店で増やしたいと思って早10年。まだ道遠し。