2017.7.28-29 臼庭 潤メモリアル・ライブ

後藤篤(tb)和泉聡志(g)本山禎朗(p)秋田祐二(b)田森正行(ds)
回を重ねて来た臼庭潤メモリアル・ライブは、毎年、臼庭と縁のあるミュージシャンによって彼の愛奏曲やオリジナル曲が演奏されてきた。今回は、臼庭の到達点の一つであるjazz-rootsに関わった和泉と後藤が加わっている。臼庭はこのjazz-rootsに行き着くまでに長らく“jazzとは”“黒人音楽とは”そして“それを演奏する自分とは”と自問し続け、その帰結としてこのグループを率いることになった。正直に言うと、筆者は臼庭がLBで繰り広げた比較的スタンダードな選曲を交えたライブの支持者ではあっても、jazz-rootsについてはそれほど熱心ではなかった。そこで、今年のメモリアル・ライブに先立って、アルバム化されている「Jazz-Roots」と「Jazz-Roots Live!」の2枚を聴いて見ることにした。準備するのは、我々が勝手に思い込んでいるオーソドックスなジャズなるものを意識の中から取り除くことだけだった。すると、クルセイダーズ・ライクなサウンドが賑やかな一方で、演奏は例の臼庭らしい臼庭が“うっ素晴らしい”のだ(恥笑)。筆者はJazz-Rootsを大分誤解していたかもしれないと思った。臼庭は常々「楽しくやることだよ」と言って自己説明していたが、A・ヒッチコックの言葉“映画とは退屈な部分を取り除いた人生である”に近づけて言うと、臼庭の「楽しく」には音楽の退屈に対する徹底した異議申し立てが含まれていたのではないかと思えてならなくなった。臼庭自身、聴衆に対しては彼の「楽しい」一面を示すことを以て良しとしていたに違いないとしてもである。
ライブの話に切り替えよう。今回は泉と後藤が参戦しているので、当然ながらJazz-Rootsのサウンドが意識されたものであった。後藤のトロンボーンは、予想外にぶっとい音で小細工無用の大らかに突き抜ける歌いっぷりは聴き応え十分、初めて聴いたがいい値札がつきそうだ。臼庭はよく「難しいことやる必要ないよ」と言っていたが、後藤は「臼庭さん難しいことやるんですよ」と言っていたのが面白い(又は「尾も白い」)裏話だ。20才くらいの時に臼庭から声がかかったという現在30代後半の和泉は、LBでその実力は証明済みだが、咄嗟に選択されるソロ・フレーズの緊張感、効果音やバッキング、カッティングのタイミングと切れ味は抜群で気持ち良いぐらいサウンドを豊にしていた。人呼んで8系のスペシャリスト田森は本人も認めるように嬉々として演奏しており、彼の本領が如何なく発揮されていたのだった。最近、多様なビートをモノにしている本山の気後れしない奮闘ぶりも大変好ましい。そして、晩年の臼庭と共演した盟友秋田だが、この日のグルーブ感は神(又は「カニ」)がかり的で、これは間違いなく臼庭メモリアルが引き出したものと断言しておく。
選曲はもちろん臼庭に因んだものだ。「アンチ・カリプソ」はLBでのレコーディングCD「LIVE AT LAZYBIRD」にも収められている。元々はE・ジョーンズの余り目立たないアルバムにある曲で、エルビン以外では臼庭がこの曲を普及させた立役者という説もある。モンクの「ベムシャ・スイング」と本田さんの「スーパー・サファリ」を臼庭が選曲した記憶はないが、他曲の中で天才的に引用していたのは鮮明に覚えている。田中朋子さん作の追悼曲「レクイエム」は、やり場のない時に聴くと泣けてしまう決定版。それからヒッチコックの“知り過ぎていた男”から「ケセラセラ」、イタリア映画の同名主題曲「ひまわり」が提供された。いよいよ臼庭の座右の曲S・ロリンズの「ペニー・セイブド」とクルセイダースの「ハード・タイムス」で大きなひと山が作られた後、様々な音楽を吸収していた臼庭の引き出しからブラジルものの「ベラクルース」、「ナナ」がふた山目となって、我々は臼庭山脈を視野に捉えることができたのだ。両日ともアンコールは臼庭の作品でJazz-Rootsのエッセンスが凝縮した「アーバン・ナイツ(Urban・knights)」で締めくくられた。時折、筆者の脳裏から飛び出した臼庭はこのメンバーの中央付近で「楽しそうに」サックスを吹いていた。
かつて臼庭とLBマスターと筆者は、果てしない駄洒落トライアード・ラリーを繰り広げたが、あの日のギャグ・ルーツは未だに根腐れを起こしていない。(続く)
(M・Flanagan)