1968年1月29日東大医学部自治会が医療法改定に異議を唱え無期限のストに突入した。学園紛争の口火が切られその運動は全国の大学、高校に伝播していった。発端となる事件の事は覚えていないが一年後の安田講堂陥落の映像ははっきりと覚えている。その後学生運動は収束し一部の極左勢力の内ゲバ闘争に変遷していった。そしてその間に起きた事件に関わった人間と微妙に繋がっていることが後でわかる事となった。
最近映画にもなったが三島由紀夫と東大全共闘との討論の一部を聞いた。「君たちが天皇陛下の事に触れてくれたのなら私は君たちと共闘したであろう」と言う言葉に考えさせられた。同じ時期学生との大衆団交に臨み要求をことごとく撥ねつけ一週間ほど軟禁された骨のある教官がいたと言う事実は何となく知っている。去年「保守と大東亜戦争」という昭和の思想史の本を読んでいたら上記の教官の名前が出ていた。林健太郎氏である。あれ、どこかで聞いた名前であると思った。盟友米木の奥さん「さきく」さんのご尊父ではなかったかと思ったのだ。米木に問い合わせた。「そちらは、叔父」との答えであった。林健太郎氏はその後東大総長になった。「そちら」が有れば「こちら」もある。こちらのご尊父は慶大教授で退官後新設大学の学長になられた。そのご尊父から「米木君、校歌を作ってくれないか」と言われたそうである。「いや、俺そういうタイプでないからさ・・・アキコに頼んだよ」
僕は小山明子しか思い浮かばない。アキコと言うのは矢野顕子の事である。
学生運動の火は全国に広がり北大にも喧騒とした雰囲気が充満していた。図書館が学生に占拠されたと報道があった。支援しに行こうと思い立った高校生の僕は北大正門前で身動きが取れなくなった。信号機は金網で防御され機動隊の装甲車と隊員で学内には一歩も立ち入れない状態であった。その図書館の中に僕が引き継ぐこととなったgroovyのマスター、野川さんがいたと聞いたのもそれから20年くらいたってからである。聞いたのは本人からではないそういう事は喋らないというのがその業界の不文律になっている。
唐牛健太郎というカリスマ運動家がいたことを佐野眞一の「唐牛伝」で知った。唐牛は全学連の委員長になった人間である。そして唐牛は野川さんと同じ時期北大に在学していた。あの図書館の中で二人は希望と蹉跌の入り混じった空気を吸っていたのではと思うと胸が痛い。
二人とも故人になっている。聞く術はない
月: 2021年1月
空耳アワー
国会中継を聴いていて耳を疑った。菅総理の答弁である。
「最後には生活保護がある」
おいちゃん、それを言っちゃお終いよ・・・。自助、自助、自助、自助、自助、自助。自助を二乗しても「至上の愛」には程遠い。ア!殺生(アセンション)と言うものだ。
乗っていた飛行機が太平洋の真ん中でエンジントラブルに見舞われた。機長の機内放送がある。「当機はハワイ沖200キロの海面に不時着いたします。当地の気温は28度、天候は晴れ。ご安心ください、最後には救命胴衣があります」
「救命胴衣があるなら安心だ。それまで、ジェットストリームを聴きながら一寝入りしよう」てなことになる・・・・・わけないやろ!!!!
機長の使命は乗客を安全に目的地に届けることのはずだ。
「政府を頼ってください」と国民に呼びかけるメルケル首相。一律10万円を渋り「後世への借金を増やすのか」と国民を恫喝する麻生財務相。菅総理、麻生財務相には疲弊する国民を勇気づけるメッセージがまるでない。GoTeGoTeの無策。無策は木を切る♪・・ヘイヘイホー。無策は人を斬る♪・・・ヘイヘイホー。
毎回の事であるが官僚の書いた答弁書を読み上げるのは止めてもらいたい。心に全く届かない。こういうのを台本営発表と言う。
Cjam bluesを譜面見ながら弾くプロがいたとしたらあなたはその人を信用するであろうか
日本映画探訪記vol13 修羅雪姫 怨み恋歌
5Gの時代になんとも昭和の裏街道を思わせるタイトルの映画である。梶芽衣子が匕首一振りで女ゴルゴ13を演じている。藤純子が演じる任侠物とも違う。原作はアニメで小池一夫が作者である。時代設定は明治時代である。時代変革を願う若者と女殺し屋が官憲に歯向かう同じ勢力として描かれている。この構図は60,70年代、学生運動が華やかし頃、高倉健主演の任侠映画をヘルメット片手に見に行く運動家たちのスタンスと同じである。鞘を捨て相手方の組に乗り込む健さんとゲバ棒抱えて機動隊に対峙する自分を同一視していた。そこに思想的な右も左もない。主演の梶芽衣子は殆ど喋らない。ポール・ブレイのソロアルバム「open to love」の音数よりも少ない。女囚サソリもののデビュー以来口数の少ない堪える女で人気を獲得してきた。口数の少ない女の良いところはミステリアスに見えることと下手な演技がバレにくい所にある。梶芽衣子が修羅場に赴くロングショットがある。縦じまの和服の裾が風でちょっと乱れる。肌の白さにドキッとするのである。監督は藤田敏八である。秋吉敏子を起用して「妹」などの昭和を代表する青春映画を撮った監督である。あれ・・変換ミスである。秋吉久美子の間違いである。秋吉敏子が妹だったらホラー映画になってしまう。
いたるところに黒澤明への敬愛の念がにじみ出ている。血が壊れた消火栓のように吹きだしてくる場面、手が藁人形の試し切りのようにスパッと切り落とされる場面は「用心棒」そのままである。タランティーノ監督がこの映画が好きだと聞いた。正直どこにインスパイアされたのかは僕のレベルでは分からない。マイルスがアーマッド・ジャマルにインスパイァされることもあるのだから、世の中分からない。
ぼくも007に刺激を受けている「いいスパイや」
ライブ持続化CD発売御礼
鈴木央紹、三嶋大輝を迎えての怒涛の6daysが終わった。お客さんが来なければ自分の首を絞めるし、満席になれば感染拡大の心配をしなければならない。前門の虎、後門の狼状態である。それがライブCDを買っていただくことで寂しくない客数でクオリティの高いライブを主催出来た。来ていただいたお客さん、CDを買っていただいたお客さん、商売道具である音源を販売することを許可してくれたミュージシャンにお礼を申し上げたい。ありがとうございました。月一度は頑張って東京のミュージシャンと札幌のミュージシャン、社会人、学生、そしてリスナーの皆さんとの交流ができる企画を継続的に主催したいと思う。何人かのお客さんからはモヤモヤした閉塞感が吹き飛ぶようなライブでしたとお褒めの言葉を頂いた。意味のある感染対策は全部してお待ちしている。
2021.1.22-23 鈴木央紹4 ハッとしてGOOD
鈴木央紹(ts)本山禎朗(p)三嶋大輝(b)伊藤宏樹(ds)
毎年、素晴らしい管奏者が来演する。彼らはいつも絶頂期と思わせる演奏を提供してくれる。メシ代を削ってでもその場に居合わせるのが、人生の正しい選択だ。
鈴木には王道を行く演奏家に欠かせない太い芯の通ったノリと、マジックと言われている曲への思いが咄嗟に音変換していくスリルがある。そうしたハッとする瞬間がGoodタイミングで繰り出される。我々に鈴木ジャズの真髄を感じさせてくれる秘密がその辺りに隠されているのかも知れない。鈴木の演奏を聴いたことの無い人に彼をどう伝えればよいかは難しい。閃きのゲッツ、豪快なブレッカー、柔らかいC・ロイドを混ぜ合わせて更に・・・、と言ってみても用をなさない。それは鈴木が歴史上のテナー・ジャイアントに比肩するレベルで演奏するONE&Onlyのプレイヤーだから止むを得ないのだ。すると鈴木評は弓折れ矢尽きてしまい、結局、生で聴いて見てくださいということに着地する。この醍醐味を一人でも多くの人と共有したいと思うのである。
さて、本レポートは鈴木5DAYSのうちの2夜分であるが、今回は5日間、1曲も被っていないそうだ。演奏曲は「ウイッチ・クラフト」、「ルルズ・バック・イン・タウン」、「フォー・ヘヴンズ・セイク」、「クレイジオロジー」、「マイルス・アヘッド」、「ハルシネーション」、「イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ」、「イン・ラヴ・イン・ヴェイン」、「バット・ビューティフル」、「ブルー・ローズ」、「セレニティー」、「マイ・シップ」、「エアジン」、「ヴェリー・アーリー」、「ニュー・ブルース(Knew Blues)」、「イマジネーション」、「飾りのついた四輪馬車」、「コートにすみれを」。
後ろのメンバーについて一言。三嶋は今回が鈴木と初共演、それが暗中模索、局面打開の格闘劇であったとしても、何かをモノにしたに違いなく、更に大きく輝くことを期待する。本山はここ5、6年の間に向き合った真剣勝負の成果を完全消化していて、安定感と主張が融和しているのが頼もしい。さらに風格さえ、と言えば褒め過ぎか。伊藤は大人である。妙な言い方をして申し訳ないが、最近の伊藤には大人が大人の演奏をしているという嬉しい等式のようなものを感じている。
多言は無用でエンディング。比較的ハコの大きい東京都内のライヴハウスは、ミュージシャンにPCR検査を求めるらしい。鈴木は既に数度受けていて、勿論、いずれもネガティヴだ。結果待ちにソワソワすることも無いという。テナーのリーディング・ランナーは演奏以外でも揺ぎ無しだ。なお、現下の情勢から聴きに来られなかった人のために2日分コンプリートでCDR提供される。これは、LBのポジティブ・キャンペーンに相当する。標題はミーハーながら、今やアイドルの片鱗もないT・俊彦氏のヒット曲から拝借、フゥー。
(M・Flanagan)
White room
あの騒乱事件をドキュメント映画にするならバックの音楽はクリームのWhite roomが似合う。トランプ大統領の扇動で一部勢力による議会占拠の事件があった。下院ではその責任を問う弾劾訴追の審議が行われた。共和党からも一部賛成に回った者もいたが反対支持を大多数であった。あれだけのほとんどクーデター未遂の事件が有ってもあの行為を結果的に支持する人間がアメリカを動かしていることにめまいを覚える。分断の溝は深い。そして民主主義を維持することの難しさを痛感するのである。事実に基づいて話す者と真理を探究している者は時として話がかみ合わない。真理と言えば聞こえはいいがカルトの経典と同じ場合がある。オウム事件を追及していたフリージャーナリスト江川紹子さんがツイッターでコリン・パウエルやA・シュワルツェネッガーが共和党を割らないでほしいと書いていた。コリン・パウエルは統合参謀本部議長でシュワルツェネッガーはその指示で地球を守った人である。相性は良い。シュワちゃんもいろいろ問題もあったが州知事時代きちんとした政策を出した人物である。志と異なる組織に所属して辛いと思うけど中に残って正してほしいとエールを送っていた。昔英語を習っていた時、ジャーナリスト志望のアメリカ人、ジュディが「レーガンを大統領に選んだことが恥ずかしい、あなたもタモリが総理大臣になったらいやでしょう」と言っていたことを思い出した。ジュディは今のトランプ大統領の発言を聞いたら白装束に身を固めて切腹してしまうかもしれない。その時僕は横山ノックが大阪府知事になったことを恥じていないとは言えなかった。
付記
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Waltz for debby
「Waltz for デビ夫人」この駄洒落の作者は自分だったか臼庭潤だったかもう忘れてしまったがこの曲を聴くと白塗りの顔をしたデビ夫人の思い出す事になり困った。
そのデビ夫人がやってくれた。日本のGDPが少し拡大した。大晦日都内の一流ホテルで90人のセレブを集めてパーティを主催したのである。コロナ禍を懸念するマスコミの取材を受けて「コロナの心配は一切関係ない方ばかりでしてよ・・・おほほほホ」と答えた。コロナ禍の社会的問題を映し出している。金融資産で稼ぐ富裕層はステイホームで身を守りながらサロンに集まって戯れる。「我、泣きぬれて金と戯る」豚木
危険でも働かねばならぬ人、あるいは劣悪な家庭環境いる人とは別世界の話である。富豪7人と下層階級36億の金融資産が同額であると言う格差社会の末端部分を見る思いである。
デビ夫人は反論するであろう「あなた達もご自分で稼いでごらんあそばせ・・オホホホ」と相好を崩す。その顔には築50年のモルタル造りの家にあるようなひびが入っているはずである。
GDPが25%以上も縮小する中、株価は年末最高値を付けた。最早株価は経済の実態を反映してはいない。安倍元総理が株価は好調と自分の経済政策を擁護するためだけに使っていた指標である。年金を受給すると実感するのであるが毎年微妙に減っていく。我々の年金、郵貯の国民資産が株式市場に運用されて目減りしていく。そこに日銀も手を貸し偽装相場を形成していく。売却益はどこに行くか。デビ夫人のような富裕層、外国人の機関投資家たちにである。
「私たちのような人間がお金を使わないと日本経済は破綻する」とデビ夫人はおっしゃった。
その顔には築50年・・・以下同文。
簡単な方法が有る。金融資産に大幅課税をして国民に給付金として配ることである。企業の内部留保金も400兆ある。法人税の減税によるものである。その原資は我々が日々負担している消費税なのである。諸ドイツなど外国では経済を回す方法として消費税減税が取られている国が有る。
直接給付、税制改革どちらも今の政権が最も嫌う政策である。そういう階層に支えられている政権と言う事だ。困ったことにそちらに行きたがる若者がという事実が有る。
付記
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自由平等
小学生の頃書道の時間に「自由平等」と書かされたことを覚えている。子供心に何か大切なことなのだなあと思っていた。
今アメリカの民主主義が危ない。義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たいのは日本であるが、「自由」と「平等」を秤にかけないのがアメリカである。トランプの支持層は貧困層の白人たちである。彼らは平等を求めない。富裕層の私財を公共に託し再分配すると言う事は自由の侵害だと思っている。その事によって恩恵を受ける立場であっても平等を拒む。
トランプは平等の実現には何の興味もない。もっと自由な国にしたら「再び偉大なアメリカ」が戻ってくると考える人が数千万人いてトランプのか掛け声一つで国会議事堂を占拠してしまうのである。
アメリカは独立宣言で市民の革命権をはっきりと認めている。国会議事堂に乱入した人間は
「生命、自由、幸福追求の権利」の追求する権利を行使していると考えている。
彼らは「アメリカの正統性」の側にいると信じている。乱入者の中には極右勢力Qアノンのジェイク・アンジエリ、ネオナチのジェイソン・タンカースリーもいたと言う事だ。そんなこともあって共和党がようやく正気に返った。ジョージア州の上下院選挙で共和党現職議員二人が落選したことが大きかった。今回はトランプを裏切らないと次の選挙が危なくなったので掌を返した。トランプはこの場に及んで「ペンス副大統領は自分の為に仕事をしていない」と難詰している。憲法修正25条では、閣僚の過半数の同意が有れば、副大統領が大統領の執行不能を宣言できるとしている。ペンス副大統領は煽動したトランプの権力を停止する英断ができるか注目している。ぺロシ下院議長は統合参謀議長とトランプが核のボタンを押す暴挙に出た時の対応策を話し合っている。アメリカも二流国になりつつあるが「仮定の質問にはお答えできない」とする何処かの二流国よりは危機管理のシミュレーションはできている。かつてニクソンがウォーターゲート事件で疲弊したときも同じシミュレーションしたと聞く。S・キューブリックの映画「博士の異常の愛」が現実のものとして起こらない事を祈るばかりだ。こんなトランプとゴルフをしていたマブダチは今どうしているのでしょうか。言いなりでスティルス戦闘機を買ったり米軍のお手伝いをする法律を通したりした人です。ホテルの明細書は企業秘密なので出せないと言った人です。トランプに貢いだ金額を今の対策に使えていればとつくづく思うのである
付記
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三本勝負
非常事態宣言が発議された。内容についても山ほど言いたいことが有るがまずタイミングを失している。音楽談義でビートが早い遅いと言う話がある。ドラマーのH樹がベーシストのKに言っていた言葉を思い出す。「Kちゃん遅いんだよ!」菅ちゃんにも言ってあげてほしい。
「菅ちゃん遅いんだよ!」
先鋒経済再生担当大臣は「勝負の3週間」と言ったが失敗した。次鋒諮問委員会の尾身委員は力を込めて「真剣勝負の3週間」と言ったがまた敗退した。勝負させられているのは国民である。大将が出てきた。菅総理「勝負の一カ月」あれれ勝負期間が長くなっている。
「最初の三週間」の時発議すべきだったと思っている。ストリップではないのだから小出しにするのは止めてほしい。
年頭所信表明雑感
菅総理の年頭の記者会見を聞いていた。完全な茶番劇である。内閣広報官山田真貴子氏の流れるような司会進行。見事であった。質問に答えていない「追加質問はお控え下さい」と総理に助け船を出し幹事社以外は一人質問は一問と限定し15分で切り上げシャンシャンとお開きにした。政治部の記者はいつまでこんなことに従うのか。
緊急事態宣言に出すのは菅政権の政策が大失敗に終わった事を意味する。政治記者たちは菅総理の政治責任をまずは追及すべきだろう。政治責任の追及を怠ってきたからここまで政治家が凋落したのだ。政治も音楽も一緒である。お友達バンドには感動はない。
菅義偉首相は昨日の会見で「実効的な対策を取るために通常国会に特措法を提出する」と述べていた。野党4党は1か月前の12月2日に補償を盛り込んだ特措法改正案を、とっくに提出している。それにも拘わらず、再来週からの通常国会まで放置して何が「実効的」なのか。
9日には緊急事態宣言が発令される。そこには国会審議前に罰則規定が盛り込まれるかもしれない。本末転倒である。
今回の規制は「飲食店・会食」に焦点を絞った限定的なものとするという。又飲食である。自分がそれに携わっているから言うのではない。菅総理の発言を分析してみたい。「専門家のご意見では感染経路不明はどうやら飲食会食が原因らしい。北海道など営業自粛要請したところでは感染者数は減少している」一見まともなことを言っているように感じるがとんでもないとアンモナイトである。感染経路が分からないから感染経路不明なのである。そんなことはあったり前田のクラッカーである。ここに感染経路に関する世田谷区の統計がある、「飲食店・会食」は全体の18・2%、家庭内感染34・2%、職場内感染13・2%、感染経路不明60%となっている。この数字はどこに重点を置くべきを物語っている。ついでに言うなら政権の身内には湯水のように億単位の税金を回すのに、医療現場や医療従事者、業界団体と無縁の中小飲食店等には、税金の出費を醜いほど出し惜しみしてけちる。自分達は政党助成金のような「公助」にドップリ浸かりながら、市民には意地でも「自助」を強要し続ける。
「経済を守る」と言う言葉を菅総理はよく口にする。これは「国を守る」と言うニュアンスに近く経済を回す仕組みを守る、端的言えば「国家体制と権力構造」を守ると言う事である。それは「国民の命と生活を守る」と言う事を意味しない。
付記
Lazy は飲食業に分類される。利益は酒を売ることによって得ている。だが自分では文化を回しているという自負がある。東京の素晴らしい演奏家を呼びこちらの演奏家と交流してもらう。文化を回せば経済も回る。ただその必要経費を捻出する体力が今の店にはない。
トピック欄をご覧の上ご支援を賜りたい。
日本映画探訪記vol12 肉弾
岡本喜八の戦争映画である。1968年に撮られているがその前年岡本喜八は「日本の一番長い日」を取っている。「日本の一番長い日」には私人は出てこない。歴史上の知られた公人の終戦の話である。三船敏郎扮する阿南陸軍大将が壮絶な割腹シーンを演じている。その映画を撮り終えた時岡本監督はその映画には欠落している部分を取りたくなったという。「肉弾」には庶民の終戦が描かれている。この映画の主人公「あいつ」は岡本喜八そのものである。本土決戦を控え対戦車用の特攻作戦が肉弾で岡本監督もその訓練を受けていた。その作戦を完遂するためには私人として祖国以外の死ぬ口実が必要であった。それを娼館で因数分解を解きながら店番をしていた可憐な女学生に求める。そのヒロインも空襲で蝋人形のように死んでしまったと報告を受ける。凄惨な死の場面は一切出てこない。死はただの死であり勇壮的にも悲壮的にも描かれない。従来庶民の死と言うものはそういうものである。今も変わってはいないはずである。死ねば葬式の時少しだけ褒めてもらえるだけである。「あいつ」が訓練を受ける中、会う人間は戦争で何かを失った人間である。笠智衆演じる古本屋に買い物に行く。両手がない。「あいつ」は小用足すのを手伝う事になる。シリアスな時ほど岡本監督は喜劇的に表現する。古本屋の親父は言う「兵隊さん、死んじゃだめだよ。生きていりゃ小便だって楽しいよ。あははは・・」笠智衆は寅さんの時のご隠居のように淡々と言うのである。「あいつ」は配置転換になり魚雷につながれたドラム缶の中で終戦を迎えることになる。運よく民間船に発見され曳航されるが途中でロープが切れまた大海を彷徨う事になる。ラストシーンは何十年か後の海水浴場。白骨化した「あいつ」がドラム缶で流れ着く。その死があまりに馬鹿馬鹿しく笑ってしまう。戦争による死と言うものはそういうものであり英霊はいない。岡本監督は「太平洋戦争とはなんであったか」と聞かれたら「多くの同時代の若者が声もなく死んでいった日々としか答えられない」という。
国家の愚策で死ぬのは戦争も現在の「あれ」も同じではないのか
付記
24条界隈にも映画館が3軒あった。45年ほど前の事である。一軒はピンク映画専門店、一軒は二流映画の三番館、一軒は名画座であった。名画座は会員制度もあり年会費2万(だったと思うが)払うと見放題でリクエストも可能だった。休みの日はそことjazz喫茶の往復で日が暮れた。
新春シャンソンショー
タイトルに意味はない。「新春シャンソンショー」と三回繰り返すと一度くらい舌を噛む。目が覚めたところで読んでほしい。
新年早々東京では最大の感染者数を数えlazyでは水道が凍結してしまった。2021年の幸先も暗雲立ち込める様相だ。
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
水が出ない時にはさすがに狼狽えた。「神よなぜ、こんなに試練を与えたもう」と独白して船底に落ちていった「ポセイドン アドベンチャ」の神父役ジーン・ハックマンのセリフが口を突いた。幸い厨房だけは凍結していない。トイレと洗面台に水を運べば何とかなる。トイレで石油ストーブをどんどん焚く。洗面台の蛇口から尿切れの悪い老人のようにポタポタ水が落ちてきた。天井の中で凍っているのではないかもしれない。そうこうしているうちに一番遠いカウンターの中の水が出た。配管が複雑なのだが取りあえず天井裏で凍結はしていない。胸をなでおろす。トイレだけであれば「初恋の来た道」のチャン何とか(名前が出てこない)みたいに水をせっせ運べば何とかなる。一瞬コロナを忘れた瞬間である。
東京都と近郊の県から非常事態宣言の依頼があった。政府は渋っている。オリンピックの行末と何にもまして選挙に影響するからだ。場当たり的な対策が非難されるのは目に見えている。
医療関係の状況が逼迫するであろうことは素人が考えても想像に難くない。一人の重篤者に10人のスタッフが必要なのである。この状態を防ぐ展望のある政策が必要なのである。成功している国だってある。中国、ベトナム、台湾、ニュージーランド・・・・なぜ学ばない。体面だけ取り繕う戦前の大本営と何ら変わりない。
それにしてもガース総理の言葉は国民の心に届かない。ニュージーランド首相、ジャシングやメルケル首相の得々と国民に訴える言葉を聞くと『一丁、聞いてやるか』と言う気になる。
どちらも女性である。残念ながら日本の女性活躍推進法は絵にかいたポール餅餡である。ニュージーランドのように首相在職中に産休を取り出産できる国になる日は来るのであろうか。
「産休very much」
余談であるがlazyの近くに「リズミック産婦人科」と言う病院があった。なんとなく陣痛がスィングしそうな名前だ。待ち合い室に入ると(僕ではない)BGミュージュクでサイモンとガァーファンクルの「産道of silence」が流れていたと言う事だ。
週刊ポストによるとガースー総理、銀座で食べていたのはステーキだけではなくて「ザンギ」も食していたらしい。
上から読んでも下から読んでも「銀座のザンギ」お後がよろしいようで・・・と言いたいとこらだがそうはならない。いやいや謝った感がある。「慙愧に耐えない思いです」くらいの謝罪はしてほしい。
付記
2012年のlazyの戦いが始まった。初日はお客さん一人、無口なFさんと初めて新年の酒を飲みかわす。あまり会えないお客さんの夢を見た。12月11日12日のライブCDR若干在庫在ります。トピック欄ご覧の上ご支援よろしくお願いします。
1月22日23日鈴木央紹2daysのライブCDR販売できるようになりました。詳細後日トピック欄に掲載いたします。
国語入試問題必勝法
受験参考書の名前ではない。清水義範のパスティーシュ小説である。徹底的に国語の入試問題をおちょくっている。最近の国会答弁を聞いているとこの小説のを思い出す。
二階幹事長「飯を食うために集まったのではないから『会食』ではない」
加藤官房長官「虚偽答弁の固定した定義は国会の中にはない」
河井元法相「金を配ったが買収ではない」
稲田元防衛相「武力衝突であって戦闘行為ではない」
安倍前首相「募ってはいたが募集はしていない」
「破壊せよ」とA・アイラーは言ったがこういう事ではない。この手の日本語の破壊のされ方を聞くと出鱈目のフリージャズを聞かされている気がする。この日本語破壊行為を許していると「侵略でも戦争でもない!これは事変だ」と発言することをも許すことにつながる。
人は言葉で考える。拡散する思想をつなぎとめるものが言葉である。言葉は蕎麦のつなぎだと国語学者の折口信夫は言った。それを鑑みると上記のお歴々は核となる思想の脆弱さが浮き彫りにされる。
音と音楽の仲介するのも言葉である。心に浮かぶ音がすべて音楽になるわけではない。音と言葉の関係は理論と実践の関係に等しい。ひらめき沈んでいく音にくさびを打ち込み定着させるのが言葉の力である。Jazzの場合即興で行われる部分が多いのでこの関係がベールに包まれているが基本は同じと考える。こういう作業をしていないミュージシャンは壊れた日本語を気にしない人が多い。
付記
この文章を書いている時点で2020年が終わった。何とか生き延びたと言うのが実感である。皆様方にはご支援いただき本当にありがとうございました。