ここのところ生きのいい若手と支配人クラスの演奏家をジグザグに味わっている。そうしたことを抵抗なく受け入れており、パソコン使った上書きのように前の記録を消失させてしまうようなことはない。誰しもそうであると思うが、所持しているレコード・CDの類で、アレを聴いてみようかと思うものと余り気が進まないものとがある。勿論、これは一個人に付き纏うカタヨリなので、そうではないという人が否定される謂れはない。筆者は凡庸にこれは聴き逃せないなと思う一群の演奏家を中心に繰り返し聴きして来ているにすぎない。それがライブに対する自然体での測量感覚だ。もう薄々答えを言っているようなものだ。鈴木央紹はスルーできない演奏家なのである。縦横、奥行、深さ、重量感、つまり音の容積のようなものを一発で体感できるのだ。ハズれのないクジはクジとは言わないかもしれないが、これまでハズレたことはない。今回は札幌のシーンを背負っている本山のトリオに参加しているのだが、例えば演奏曲の中にO・ネルソンの「Butch&Butch」という曲があった。後に鈴木に初演かどうかを尋ねてみると、初演だと言った。曲読みの深さとそれが平然と音として化けて出る様は普通でなさすぎる。バド・パウエルの作品を借りて言うならば、アメイジングでありジャイアントである。あっという間に時が過ぎてしまのも仕方がない。唐突にあることを思い出した。吉田茂が占領軍たるGHQとの協議中に、連中の頭文字をなぞってGo Home Quiclyと脳裏で呟いたらしい。論理の場に感性が割って入って両義成立している様子が窺われる。鈴木によれば演奏中途切れることなく原曲の旋律が流れているという。表の一枚が実は二重構造になっていることの実例として吉田を思い出だしたのかもしれない。ここまで来ると気分は頂上付近だ。余計なことを言って滑落せぬよう、肝心のリズム・セクションについて語ることは容赦願いたい。演奏曲は「Embraceable You」、「Pensativa」、「Guess I’ll Hung My Tears Out To Dry」、「Butch&Butch」、「Midnight Mood」、「Blessing」、「Worm Valley」、「I Remember April」、「In Love In Vain」。
ところで、私立ちは“本日限り”“残りわずか”“というチラシが踊ると黙っていられない主婦心理が働く。鈴木央紹、その名を見ると、吾輩は主婦であるになるのである。厄介なことに9月早々鈴木がまたまた来演するとのことだ。立派な主婦としてちょっといい前掛け締めて行かねばならないな。
(M・Flanagan)
カテゴリー: ライブレポート
2022.7.15 Kejime Collective
広瀬未来(tp)高橋知道(ts)渡辺彰汰(p)古木佳祐(b)山田 玲(ds)
過去にも記述したが、6、7年くらい前から東京で芽吹く若手ミュージシャンのライブが継続的に企画されて来た。若井(b)という慧眼の持主をエージェントとして多数のまだ見ぬ若手が送り込まれて来たのである。今回のバンド・リーダー山田玲(以下「アキラ」という)もその内の一人だ。それまでは名のある演奏家を聴きに来るという手堅い基準に寄り掛かりがちであったが、その頃から寸尺掴めぬ危うくも新鮮な環境に触れることが出来るようになった。LBでは東京でも実現されていない組み合わせはよくあることだが、今回はレギュラー・バンドである。レギュラー・バンドには、是非は別として割と台本どおり纏めてしまう場合と意図を共有する者同士が自由度を高めながら纏まっていく場合いがあるように思う。さて、このバンド(Kejime Collective)の針はどちらに振れるだろうか。今回のライブは彼らの新作『Counter Attack』のリリース記念を兼ねているということで、選曲はオリジナルで占められるそのアルバムからのものである。実はこれまでアキラ以外のメンバーを聴いたことがない。なので何度も目を開閉し、観察したり聴き入ったりを繰り返した。夫々について感想を並べてみよう。冒頭から唸らされたのはtp広瀬である。抜群の切れ味・フラつきのなさは、気分を引っ張ってくれるのに十分と言ったところだ。Ts高橋は黒光りする艶やかなトーンからアイディアに満ちた展開力が聴きどころ。しかも玉切れしないのは見事である。P渡辺はスキを見せないフロント2管に対し、強く割って入るようなことはなく、あえて隠し味を添えることでバンドを引き立てることに徹していたように思う。だがソロを執った時の腕前は並ではない。B古木はウッドとエレベを使い分けでいたが、古きをたずね・・・などと言っている場合ではない、生粋のグルーブ野郎であることが分かった。個人評からバンド評にいこう。まずそこにレギュラー・バンドならではの総合力があるのを感じた。互いの持っているものを最大限に引き出し合おうとする信念のようなものが、会場を席巻していたと思えてならない。時に、笑いを誘う器用なひと幕もあったが、取り組みが大真面目なので、単なる余興とは明らかに一線を画するものだったと言えよう。総じて何か新しいものへの追求心のようなものが、台本にない熱いステージ・ワークへと導いて行ったに違いない。その熱気を冷まして締めくくろう、私たちはドラマーそしてバンド・リーダーとしてのアキラの底力を見せつけられたのである。演奏曲は「African Skies」、「It’s A Hustle」、「Mr. K」、「Counter Attack」、「Kejime Island」、「A I」、「Mouth Drum Battle」など。
その昔、学研のグリップ・アタックという参考書があった。後日、アルバム『Counter Attack』を聴いてみた。今のいま、表紙に“kejime Collective”と題された会心の参考書を手にすることが出来たわい。
(M・Flanagan)
2022.7.9 奥村和彦tio +1+α
奥村和彦(p)安藤 昇(b)伊藤宏樹(ds) 西田千穂(vo)
奥村の来演は相当久し振りのことになるが、ドラムスの伊藤が九州で共演を重ねているので、時折話題になる。思い起こせば、奥村には豪腕系のピアノだというのが初聴きの印象としてある。私たちは演奏家に対するイメージを何となく定着させてしまうのが普通にあるが、耳というのは規律正しくあろうとしない面があって厄介だ。熱演に喝采することもあれば少しやり過ぎと訝ることもあるし、圧倒的な技量に持っていかれることもあれば卓越の度が過ぎて心に響かないと感ずることもある。こうした我儘な感覚を整理するのは鬱陶しいので、演奏家のオリジナリティーに拠りどころを見出すのである。「ああ、あの人の音だ」いうように。奥村の音は以前聴いた印象の延長上にあり、一言では難しいが逞しさを基調にしているように思う。今回の構成は、前・後半ともトリオで2曲のあとにヴォーカルが入るというものである。そのトリオを聴いていると、ヴォーカルが押し込まれてしまうのでは、と思ったりもしていた。ところが西田(鹿児島出身で九州を舞台に活躍の場にしている)の堂々たる歌唱は、何ら後ろに引けを取らない堂々たるものであった。そして少しハスキーな声質は、Trio+1に+αの役割を提供していたように思う。演奏曲はTrioがオリジナル3曲に「「There will never be another you」、歌が入って「Lousiana Sunday Afternoon」、「For All I Know」、「Gee Baby,Ain’t I Good To You」、「That’s Life」、「Here’s To Life」、「My Favorite Things」、「What A Wonderful World」。
失礼ながら、予想外の素晴らしさに「帰れ、帰れ!」のシュプレヒコールが沸き起こり、薩摩の芋味はレイジーのいも美を凌ぐほどであったことを付け加えて置かなければなりもはん。
(M・Flanagan)
2020.6.25 新生DUOの生電ネットワーク紀行
大石学(p)米木康志(eb)
本年上半期を締めくくる米木週間で聴いた三夜の中からDUOの日に焦点を当てたい。実はこの前日(6/24)にセットされていたのは大石と“そして神戸”の実力派松原絵里(vo)とのデュオであったが、折からの暴風雨により鉄路北上中の大石が函館で足止めを食らうことになってしまったのだ。運良くこの日オフの米木と実力・ユーティリティー兼備の本山によりボーカル・トリオのライブとなった次第である。詳細は割愛させていただくが、ジャズ・ボーカルの王道を行く松原に緊急リリーフ陣が抜群のサポートを見せ、トラトラの奇襲は惚れ惚れするものになったことを伝えておく。さて、本編の主題である大石・米木のDUOについて語って行こう。特筆すべきは米木がエレベで臨んだことである。エレベにはウッドと違った粘着性や浮遊感があり、そこから発出されるグルーヴはこの楽器独自のものである。そうは言っても、アコースティック・ピアノとの組み合わせはどうなんだろうかと訝る思いも無いわけではなかった。なのでかつてのネイティヴ・サンやZEKでしか米木のエレベを聴いたことがない筆者のなかでは期待と躊躇が交錯していたのだった。ところが聴き進むにつれ、エレベは奇を衒ったものではなく、新たな試みとして大石の音楽的意図を拡張したものだという思いが強まっていく。そのことはベースがふんだんにメロディー・ラインを執る構成に見て取ることができる。なんかハマっちゃったなと思った時には、既にこの“生電ネットワーク”紀行は終盤を迎えていた。その終盤を飾ったのが、何度も聴いてきた大石の名曲「peace」だ。この曲に新たな表情を吹き込んだこの新生DUOの象徴をなす演奏だ。私たちは書き損じたときに、紙をクシャっと丸める経験をしている。だが一回二回几帳面に角を合わせて折り畳んでから丸める、そんな大石の人物像が頭をかすめた。彼はひと手間かけることを厭わない演奏家なのだと思うのである。演奏曲はオリジナルで占められていた。何が言いたいのかを問われれば、ピアノは持ち運びの効かないゆえ、マイ楽器による演奏家とは異なる立場を強いられる。従って1台のピアノを巡って演者の個性が露わになってしまうのだ。僅か数音で誰の音か分かることもあれば、そうでない場合もある。大石は分かる側の筆頭株だと思う。ピアノから何か一言もらいたい気分にもなるというものだ。文脈が雑多になってしまったが、かねがね一度負け惜しみを言っておきたいと思っていた。因みに筆者は演奏曲を音楽理論的に解説したりすることはないし、そうする能力もない。それは専門家の役割である。旨い小料理を伝えるのに、高名な産地を並べても旨さを伝えることができないと思っているので安心している。大切なのは舌包鼓の感触を伝えられれば良いと思うのである。ライブとは音の振動をそのように味わうことなのである。軌道をもとに戻してかなり不確かだが演奏曲を紹介する。「今できること」「ロンサム」「カラー」「シリウス」「アンダー・ザ・ムーン」「キリッグ」「7777酔いマン」「ニュー・ライフ」「花曇りのち雨」「目覚め」「ルック・アップ・ワーズ」そしてトドメの「ピース」。
このライブを以て今年もはや半分経過する。ミュージカルの聖地ブロード・ウェイの関係者によれば、上演の75%は失敗に終わるとのことである。上半期の24ナロウ・ウェイはそれに該当していないな。この分だと7月以降も視界良好に違いない。
(M・Flanagan)
2022.5.20 オール目玉、3人Side Up
壺阪健登(p)三嶋大輝(b)西村匠平(ds)
西村8Days、連勝街道を行けば、中日で勝ち越しである。そうなれば良いが、これは先ごろ開校した「レイジー生き残り塾」の第一弾だという噂を耳にする。聞くところによると、及第点は落第という抜き差しならぬ基準があるそうだ。親しき仲の礼儀なにするものぞということか。つかみはこのくらいにして進めよう。最近、今回のメンバーのような演奏を聴いていると、つくづく思わされることがある。気鋭の若手登場!という触れ込みに釣られて初聴きしてから僅か数年しか数えていないにも拘らず「前とちがうな」と印象づけられるのだ。ここで個人的かつショボイでストンプな話をさせていただきたい。サラリーマン稼業を卒業すると、長年つづけてきた仕事って一体何だったんだという問いかけに襲われ、立ちつくしてしまったことがあった。結局、仕事という仕事は「対処力」を養い続けることに過ぎなかったのではないかと思わされる。これは誰しも共通していることなのであろうが、しかし、音楽を含む文化活動を生業にしている人々はそれだけでは済まされないと感ずる。それは突出して固有性が突きつけられるということだ。気の進まない言い方だが。会社人が会社の法規に従い続けるのに対し、文化の人々は独自の文法を作らねばならない宿命にある。筆者にも青春というひと時があって、今時の人には馴染みがないと思うが小田実という作家(活動家)がいて、彼の講演会を聞いたことがある。彼の思想を必ずしも受け入れようとは思わないが、一つ印象深いことがあった。それは彼が聖書を大阪弁に翻訳して、それを読み込んでやろうと大真面目に言っていたことだ。滑稽な話にも思えるが、一笑に付すことが出来ない含みがあるかも知れないと振り返って思う。ここには人がどう思おうと自分的なる展開に持ち込もうとする意思が見て取れる。このトリオのメンバー個々にも小田とは別の仕様で為そうとする意思があると思わざるを得ない。であれば、演奏から受け取る高揚の一方で、彼らののっぴきならない深層に付き合わされていることになる。聴いている私たちは「感ずる」だけで良いが、彼らは絶えず「感じ直す」という次元で勝負しているに違いないというのがこのライブの感想だ。本文に目を通した各位にはカビ臭い話に許しを請うが、ライブの寸評として、壺阪が従前以上に弾き切っていたこと、サウナ汗に匹敵する三嶋の完全燃焼、西村のと切れることのない繊細かつ逞しいプレイ、そこにはこの日の目玉の3人とも「対処力」たる守りの白身に依存しない自立する黄身を輝かせていたと言っておこう。我が家にはライブの余韻割というカクテルがある。小林幸子ではないが帰宅後、無理して飲んでしまった。演奏曲は「The Days Of Wine & Roses」、「Little Girl Blue」、「SubconsciousLee」、「Turn Out The Stars」、「Bye-Ya」、「Isolation」(壺阪)、「暮らす歓び」(壺阪)、「All The Things You Are」、「It’s Easy To Remember」、「Moments Notice」、「I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free」。
なお、壺阪のオリジナルは、大変“お世話になっている”レイジーに捧げるとのことであった。売れっ子にスキは見当たらない。
(M・Flanagan)
2022 17周年のApril in バリバリ
これはLB17周年記念として企画された規格外の本田珠也6日連続ライブである。今回はそのうち編成メンバーの異なる4日ほど足を運んだ。久しぶりに頭の中はてんこ盛り状態になっている。これ全部を捌くのは至難と思い、東京ミュージシャンが結集した二日分に限定するのが賢明と判断した。この組み合わせは率直にファースト・ラスト的な感じがする。予感的中ならば、後から振り返ったとき私たちは大変貴重な場に居合わせたことになる。未来はどのような悪戯を選択するかは分からないが、今これを聴き逃すことにならないという焦りが襲いかかるというものだ。当然ながら、主賓の本田珠也についてレポートしなくてはならないのだが気が重い。その理由は彼についての月並みな賛辞は許されないということではなく、祖父や父親の楽曲を演奏するというということ自体が稀有なことであるうえ、それを突き詰めていくと、子は親を選べないという人の鉄則に反し、彼に限って子が親を選んでしまったのではないかと思わせるような幾分怖い特異性に行き着いてしまので、それに太刀打ちできそうにないからだ。幸い演奏中はそういうことを考えずに済んでいるが、書いている今はライブ中ではないので揺ら揺らしている。なので卑怯にもリスク・マネジメントとして、モザイク効果を期して少々脇道に逃げることにする。40数年前になろうか、B・エヴァンス・トリオを聴いた時に、ドラムのP・モチアンがうるさくて取り返しのつかないことをしているように思えていた。それから何千もの昼と夜が費やされていくにつれ、モチアンがいなければワン・ランク下の名盤に留まっていたかも知れないと思い始めだしたのである。こうした思いの核心は共感を得られるかどうかではなく、時と個人の感覚の関係として見た場合に、感覚は定点に留まることなく結構うろうろ歩き回っていることが確かめられることにある。時つまり歳を重ねるとはそのようなことだという極く平凡な結論に至るだけのことに過ぎないかも知れないのだが。すると珠也を初めて聴いた時と今とでは感じ方がどこか違っていると感じても不思議なことではない。それは彼の側ではなくこちら側の問題なのだから。誰もが認めるようにあの伝説的“蹴り”同様に破壊力のある豪快なドラミングが珠也の最大の聴きどころであることを受け入れた上で、今回耳を凝らしながら強烈に思いを強めたのは、珠也が驚異的に歌い続けていることであった。ここには表層の興奮を通り越した世界がある。アンタ今ごろ気付いたの?と言われてしまうと身を隠したくなるが、ここのところを正直に告白しておかなければ、彼が標榜するDown To Earthや“和ジャズ”の達成に近づける気がしないのである。ここらでモザイクを解除し二日間のライブ話に持ちこんで行こう。なお、今回の珠也Weekで彼はバンマスを務めておらず、ピアニストがその役割を担っていたので、予め申し添えておく。
2022.4.7 荒武雄一朗(p)米木康志(b)本田珠也(ds)
荒武は三年ぶりくらいの登場になろう。その間、彼は自ら立ち上げたレーベルOwl-Wing-Recordにおいて精力的に制作活動を行っていたらしい。蓋を開けてみると制作活動が演奏行為の妨げになるどころか矛盾することなく連結していたように思う。そこにはピアニストの枠を越えた音楽者としての荒武の素晴らしい演奏があった。それを周囲の様子からお伝えしよう。筆者から少し離れたところにある女性の背中があった。肩を震わせていた。後で聞くと、荒武のプレイに号泣、珠也の打撃に嗚咽、米木さんによって辛うじて我に返えらせて貰ったということである。筆者も終演後の余韻に縛られ、しばらくは人と話をする気になれなかったのだった。荒武のレーベル名になぞらえると、三者All・WINと言ったところだ。演奏曲は「Golden Earirngs」、「I Should Care」、「Water Under The Bridge」、「Influencia De Jazz」、「Dialogue In A Day Of Spring」、「Beautiful Love」、「閉伊川」、「Sea Road」、「Dear Friends」。
2022.4.8 荒武雄一朗(p)後藤篤(tb)米木康志(b)本田珠也(ds)
昨日のトリオに後藤が参加したカルテットである。後藤は2度目の来演だ。何と言っても彼はこころ温まるトロンボーンの一般イメージとは違う位置にいる。音がデカい。従って我々は救急車が来たときの一般車のように一旦道路脇に寄せなければならない感じになる。ではあるが、だんだん救急車に引っ張られて行くハメになっていく。そんなプレーヤーが後藤である。荒武、後藤、珠也そして米木さん、それぞれ固有の黄金比をもっているミュージシャン同士の融合は聴き応え十分であり、それ以上付け足すことはない。演奏曲は「That Old Feeling」、「All Blues」、「Be My Love」、「No More Blues」、「I Should Care」、「Riplling」、「Little Abi」、「夕やけ」、「Isn’t She Lovely」。Here’s To This Quartet。
レイジーバードのApril、17周年記念ライブは、うっとりするようなパリではなくバリバリだった。嗚呼“Live is over”とオーヤン・フィフィーなら言うだろう。ひと言付け加えさせて頂く。「米木さん、今回も心に沁みました」。
(M・Flanagan)
2022.3.15 鈴木・西村の週間春分砲
鈴木央紹(ts)本山禎朗(p)柳 真也(b)西村匠平(ds)
弥生三月の第2週は鈴木央紹、西村匠平週間だ。多様な取り合わせが組まれていので、迷いつつこのカルテットに出向くことにした。鈴木については、何度も聴き何度もレポートして来たのでおおよそ書き尽くした。このことは聴き尽くしたこととは全く違う。次も聴きたいという動機が働いてしまうのがその理由である。ファン心理とはそんなものだ。高速でねじ伏せ、低速で息をのませる、しかも大人の粋さがある。私たちが目撃しているのは、どんな風向きも自分の味方につけてしまうような並外れたクリエイターである。おっと、またダラダラ書きしそうなので、ページをめくることにしよう。西村は昨秋久しぶりに顔を出したが、それから程なくの登場でペースが上がってきたようだ。前回と今回から思うのは、初めて聴いた多分5年くらい前との微妙な違いである。かつて、勢いあるプレイと繊細なプレイが区分されていたように思えていた(それはそれで非難されるべきではない)が、今はその区分が簡単に見分けられない。繊細さが繊細に聴こえているうちは未だ本当の繊細さに至っていない、彼の数年間はそういう歩みと共にあったのではないか、そのように想像してみた。鈴木も西村も年内にまた聴けそうなので楽しみだ。ライブは既に始まっているのである。この日は聴こうと思えば何時でも聴ける堅実なプレイで定評のある柳と秀逸な作品を連発している本山が申し分のないサポートをしていていたことを付け加えておく。演奏曲は「Airegin」、「Introspection」、「Little Girl Blue」、「Long Ago & Far Away」、「Vely Early」、「317East32」、「Worm Valley〜Little Willy Leaves」そして「I’ll Be Seeing You」。
この冬の札幌には散々苦しめられた。最近は少しずつ日が長くなってきてコルトレーンの“Equinox”(昼夜平分点)を思い出しながらレポートしている。週刊文春のようにスクープはないが、このライブは、正に昼夜平分点を目掛けた充実の“春分砲”となっていたのだった。
(M・Flanagan)
2022.2.26 本山禎朗 の「As it is」
この日のライブは、本山の最新アルバム「As it is」リリース記念の第一弾として組まれたものである。発売レーベルは、ここLazybirdで何度か演奏歴のあるピアニスト荒武裕一郎氏が主宰するOWL-WINNG-RECORDだ。音楽文化の保存や発展と真摯に向き合うこの主宰者から声がかかること自体、本山の力量を物語るものであり、その意味で今回のことは降って湧いた特ダネでも何でもないと言えよう。私たちがこの新作に期待を膨らませるこのライブは2月26日に行われた。226である。一石を投じられているかも知れない。それはさておき、ライブは当然ながらアルバム収録曲が中心であり、まずはそれを紹介をする。「It Could Happen To You」、「Witch Craft」、「Misty」、「Butch & Butch」、「Come Together」、「Moon Walz」、「Little Wing」、「Fingers In The Wind」である。これらの曲は本山が演奏し慣れた曲というよりは、特別な思い入れがある曲である。普段はあまり読まないライナー・ノートに目を通して、これらの曲は本山が演奏することへの志を後押しする契機へと導いた楽曲集なのである。そう思っているとタイトル「As it is」の意味合いが少しずつ近づいてきた。多くの人と同じように、筆者にとっても音楽とは、音を媒介にした生命の表現行為と思っている。個々のアルバムやライブを即時的に楽しむことを大前提としつつ、そこに至るまでに演奏家がくぐり抜けてきたプロセスを想像することは陰の楽しみである。生命が必ずしも一定でないように、音楽表現も“時の階段”を踏み上がることで一定であろうとはしない。このことは過去の否定とは異なっていて、時を経た現在から過去に向かって返信してやろうとする思いに駆られるのは正統なことである。すると本山がこのアルバムで描こうとしたことが見えてくる。「As it is(ありのまま)」とは、過去の「As it is」群を現在時点での「As it is」に集約してみせることだったのではないのかということだ。先に述べた“時の階段”とはそういう意味を含ませて使ってみた。最後に、このアルバムについて体感的に述べておく。筆者はレコード、CDをジャズ喫茶のように聴くので、同じアルバムを立て続けに繰り返す習慣はない。しかし、今回は朝、昼、晩そして深夜と何度となく聴いた。むしろ何度も聴くことができたと言ったほうが正確である。「Misty」ほか素晴らしい演奏が納められている。本山の最良の姿を捉えた素晴らしい作品だと言い切っておく。
(M・Flanagan)
付記
アルバム購入方法についてはトピック欄をご覧ください
2022.2.18 「バップ、いいスね」
松島啓之(tp)岡 淳(ts)本山禎朗(p)柳 真也(b)原 大力(ds)
松島と岡そして原は、若き修行時代のバークリーで被っていて、帰国後はよく顔合わせをしていたとのことである。その頃から時を経てこの3人が顔を揃えるのは随分久しいとのことらしい。因みに東京から来るミュージシャンの話によると、ホームでの共演機会がなくても、ここLBで再会を果たすことがままあるらしい。言わばレア盤のようなライブを私たちは目の前にする機会を得ているということができる。今回もそのケースと言ってよく、LBライブ史上、Saxではまだ見ぬ最後の大者の一人というべき岡の参加という貴重な編成となっている。終演時点から物申すのも妙ではあるが、たまたま横にいた柳が「バップ、いっスね」とはしゃぎ加減の笑みをもって一言発した。彼が初めて演奏したというモブレーの「Rall Call」のことを言っているのだろう。筆者もライブでこの曲を初めて聴いた。突き抜けていく松島と悠然とウォームな岡のブレンドは、「バップ、いっスね」で勝負ありだ。20世紀半ばの黄金期に敬意を払うかの熱演である。開演に時に巻き戻そう。オープニングは「You Are My Everything」、多分松島の選曲だろう。トランペットが輝きに輝く。2曲目は岡のペンなる「Only One」、岡によれば“My One&Only Love”のチェンジを拝借しつつ原曲の“Only”と“One”を抜き出してタイトルにしたそうである。後で原が「リハ演らんかったらヤバかった」というナーバスな曲である。バラード指定席の3曲目は「Darn That Dream」、何故か最近この曲を最近よく耳にする。そして4曲目は先の「Rall Call」だ。2回目は如何にもハンコックらしい曲想の「Driftin’」で開始。続いて松島の「Treasure」、何度か聴いて耳に焼きついてしまった。3曲目は「If You Could See Me Now」、どういう訳かこの曲を聴くとH・メリルの歌唱を思い出してしまう。最後はK・ドーハムの名作「Lotus Blossom」に汗が飛んだ。喝采に乗ってアンコールは「I’ve Never Been In Love Before」。岡の参加は効き目十分のGroovin’ High!。
後日、札幌は記録的大雪となったので、その前にこのライブを聴けたのは実に幸運であった。一方、ドラムを務めた原にとって後に控えた3Daysが直撃されたのは不運としか言いようがない。歩道も閉ざされる中、意を決して中日のLa Coda with原を覗いてみた。原曰くバッチ(Bach)やチョピン(Chopin)など普段は演らない楽曲においても、原ワールドは至って揺るぎない。さすがの原師匠である。なお、本文に一度も触れていない本山については、別の機会に譲ることにしたい。
(M・Flanagan)
2021 レイジーバード ウォッチング
『Jazz is』。これは批評家ナット・ヘントフ氏の著作のタイトルである。「is」のあとに来るのは個々人のJazzに対する思いであり、特定の解はない。だからヨソからの縛りを喰らうことなく聴いていられる。これは結構大切なことのように思う。今年もソロから複数人の編成まで様々なタイプの演奏に接したが、それは偏に楽しみの幅の広がりとして受け入ればよいのだと思うが、どうだろうか?。さて、今年はどんなだっただろうと考えてみると、気分のうえで上半期はモヤモヤ、下半期は割り切りといった感じだ。思いつくまま振り返ると、6月までは常連の鈴木央紹、若井俊也、Unpluged Rockなどが記憶に残る。それと若井のライブに客演した村田千紘の「Blue In Green」が個人的には印象深い。7月以降になると時間制限と酒類禁止の中、皆さんがチビチビとウーロン・トゥギャザーしていた時の光景を思い出す。それはさておき、ライブの話に戻ろう。まずは三嶋のトリオだろう。毎度の手土産“東京バナナ”の皮1枚で滑らずにいた三嶋が満を持して連れてきたメンバー(加藤友彦(p)と柳沼祐育(ds))とのセットだ。このトリオは彼の自信を裏付ける出来栄えだった。連れてきた二人とも初聴きだったが、溌剌として引き締まったプレイは上々のものである。特に若き加藤の今後には大いなる期待を持った。そしてこのトリオは12月にも声がかかることになったのである。三嶋は辛口で知られるLB・AWARDにおいて堂々最優秀賞の栄誉に輝いたと聞く。そこで三嶋について一筆付け加えておく。彼は回を重ねるごとに充実した演奏を披露しているように感じている。思うに、三嶋にとってライブは課題発見と克服の結合になっている。人は本当のことに気がつくと嘘をつきたくなるものだが、実直な三嶋はそこに陥らず課題を正面から受け入れているように見える。演奏を聴けば、それが分かるのだ。ただし、それが受賞理由の一つになっているかどうかは知る由もない。8月にはLBの一帯一路戦略を牽引してきた米木さんのお出ましとなった。聞くところによると東京ミュージシャンはギグの中止・順延を後追いで穴埋めしていようで、ブッキングが思うに任せない事情下にあるようなのだ。そんなこんなで、今年は観測史上初めての1回出演になったのだ。演奏は山田丈造を招いてスタンダード中心に進められた。8時終了というのは残酷に思えた。お盆明けには松島・山ジョーの双頭ライブがあった。松島は演奏もさることながら、人柄だけでメシを食っていけそうな模範人だ。9月はLUNAの北海道ツアーの本体が中止になったが、ツアーの付録編は無事挙行された。ジャンルのルツボのような構成は特許もの。この路線は定着しつつあるようだ。月の終わりには原大力Week、オルガン入りトリオ(原、鈴木、宮川)のグルーブは益々磨きがかかっている。宮川が「上達すると演奏がつまらなくなる」と自身に警鐘を鳴らしていた。プロの世界は厳しい。10月に入っても時間制限は解除されていない。カニBAND北海道ツアーのオフに唯一設定された大口・林Quartet。林さんのドエラい音に会場が膨張した。11月にようやく制限解除となった。先鞭を切ったのが若井・壺阪・西村のライブだ。いいタイミングでいい連中が登場した。彼らにとっても客にとっても開放感が充満していた。これが本来のライブではないか。以後、怒涛の展開となって行く。昨年我々を驚かせた竹村一哲グループ(竹村、井上、三嶋、魚返)による『村雨』ライブだ。4つの個性の激突はスリル満点、一哲は改めて札幌の誇りであると確信した。こうなると気を緩められない流れにハマってしまわざるを得ない。小松・楠井・本山のトリオ。聴きどころ満載である。リーダーは本山、昔流の言い方を借りれば「どこに嫁に出しても恥ずかしくない自慢の娘」的な本山が余すとこなくこん日の力量を見せつけていた。いよいよ本年の最終月。待遇改善がかなった三嶋トリオの再演。「アップ・テンポの演奏で喜んでもらうだけが能じゃない」と切り出して“テネシー・ワルツ”なんぞを披露した。三嶋は演奏家としていいテンポを刻んでいるわい。そしてこのトリオをバックに待ちに待った池田篤。いつも池田には感動の予感が働く。蓋を開けてその通りになる。大熱演の締めくくりにどこまでも穏やかな「フォーカスセカス」には麻酔にかけられたような抵抗不要の気分になったのだった。今年の締めくくりはLUNA4DAYS。全部聴いたわけではないが、あぶない路線に円熟味が加わり、黄金期の浅草六区でも面食らいそうなSun Shine Of Your Liveでフィニッシュした。
今年も残り僅か、毎年、除夜の鐘の刻に何かを聴くことを習慣にしている。今年は何にしようか考えているが、LIVEものにしようと思っている。JazzおよびBeyond Jazzファンの皆さんよいお年を、そして2022もLIVEを楽しみましょう。
(M・Flanagan)