「推す力」中森明夫著


日本の ジャズの歴史を遡ると芸能界の誕生とのクロスロードに立つことになる。例えば渡辺貞夫である。ナベサダと呼ばれている。ジャズの黎明期、渡辺姓のミュージシャンがたまたま多かったのであるが区別するのに「ナベサダ」「ナベシン」「ナベタツ」と呼ばれていた。「ナベシン」こと渡邊晋が55年に設立した芸能ポロダクションがナベプロである。その片隅を間借りしていたのがジャニーズ事務所と言う事になる。ナベプロ制作の番組「シャボン玉ホリディー」は毎週見ていた。ザ・ピーナッのバックで踊る初代ジャニーズの事を薄っすら覚えている。
ジャニーズ問題が取りざたされている時期you tubeメディアでコメンテーターとして出演している中森明夫の存在を知った。性加害そのものではなくジャニーズにおける父性の欠如という斬新な視点で語っていた。そう言えばメリーの旦那でジュリーの父親が全く出てこなかったことに気づく。父親の名前を聴いた時存在だけは知っていた。藤島泰輔・・・小説家としてである。新聞記者としてキャリアをスタートさせているが人間関係の幅の広さに驚く。先ず上皇のご学友である。若くして亡くなっているがジャニーズ事務所設立の際は後方から支援した。
話は本題に入る。この本はアイドル論である。アイドルと言う言葉を聞いたのは60年代の半ばシルビー・バルタンの「アイドルを探せ」という曲によってである。では日本のアイドルはいつ出現したかと言う事である。僕は麻丘めぐみ位からではなかったかと勝手に思っていた。年頃の男の子に勘違いさせて疑似恋愛体験をさせるという手法である。麻丘めぐみのヒット曲に「私の彼は左利き」というのがある。僕は左利きである。おお・・・やっと自分の時代が来たと思ったのである。矯正されて直した右利きを左利きに戻していた時期がある。だが世の中甘くない。左利きだけではモテないし注目もされない。そうこうしているうちに「左寄り」になりレフト・アローンにのめり込むようになって「左前」になっていった。中森は最初のアイドルは1971年にデビューした南沙織だという。その前にもアイドル的歌手はいた。雪村いずみ、江利チエミ、弘田三枝子などなど・・・だが洋楽の日本版と言う存在であった。南沙織の生みの親CBSソニーのプロデユーサー酒井政利は日本独自の新しいシンガーを世に送り出したい思いでデビューさせた。この時中森11歳・・・論理的に南沙織が日本最初のアイドルと規定できるはずもない。ここに推しという概念が関与する。歌による仮想空間が存在しアイドルとフアンが同一方向に向かっているこれが「推す力」である。そもそもアイドルとは何か。中森は日本憲法を持ち出す。
『天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく』
「アイドルはフアンの象徴でありこの地位は主権の存するフアンの総意に基づく」と読み替えられる。
主権はあくまでフアンに有るとする。ここにはキャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、安室奈美恵など時代を彩ったアイドルの変遷史が分かりやすく綴られている。アイドル界にも批評は必要だという。成熟した芸術、芸能の分野には優れた評論が存在する。評論をただのこき下ろしと勘違いする輩が多い。勿論ジヤズ界も例外ではない。
アイドルは元々未完成のものでフアンとの共同作業で磨き上げられていく。絶対に輝く瞬間が有ると思って支える人が居るから続いている。この見解はジャズに関しても半分だけ当たっている。
「推す力」中森明夫著 集英社新書 1000円

「村に火をつけ白痴になれ 伊藤野枝伝 」栗原康著


伊藤野枝は今から100年ほど前に生きた作家であり編集者であり婦人開放家で無政府主義者であった。女学校時代にのちに作家となる教師、辻順と恋愛関係となり辻は教職を追われることになる。野枝は辻と事実婚状態なるが情熱は収まりきらず大逆事件にも関わったとされる無政府主義者、大杉栄と同棲生活に入る。大杉も自由恋愛思想の持ち主で奥さんと愛人もいたがそこに野枝も入り込んでいった。三角関係ならぬ四角関係である。週刊文春にすっぱ抜かれた元内閣官房副長官、木原誠二を彷彿させる。だがこれが今の話ではない。100年も前の話なのである。栗原が野枝の故郷、福岡の今宿を取材で訪ねた所、お年寄りの口が重たいのである。「あの女の故郷だと知られるのが恥ずかしい」というのである。ある年齢の方の倫理観からすれば想像できない女性だったと推察される。野枝は生まれるのが早すぎた女性である。野枝は平塚らいてうの後を引き継ぎ「青踏」の編集にも携わったが一般女性にも紙面を解放した。野枝はよく言えば共助の精神、悪く言えば使えるものは親でも使えというスチャラカ社員的な何とかなるさと言ういい加減な考えの持ち主でもあった。当然赤貧状態であったがあまり気にしている様子は伺えない。勿論筆の力を緩めることもない。野枝は時代を駆け抜け28歳の若さで大杉ともに特高によって虐殺される。1923年関東大震災の年である。栗原は野枝の情熱が乗り移ったかのようなテンポの良いポップな文体で綴っていく。男性が書いたこの手の評伝に在りがちないやらしさはない。その事がブレディ・みかこのあとがきで明らかになる。栗原は女性になりたかったという。そうか・・・栗原は辻や大杉になって野枝を愛したかったのではなく野枝になって辻や大杉に愛されたかったのだ。女性に読んでもらいたい一冊である。

「村に火をつけ白痴になれ 伊藤野枝伝 」栗原康著  岩波現代文庫¥1120

「女帝 小池百合子」 石井妙子著

石井妙子のノンフィクション作品はどれも面白い。僕は「原節子の真実」「おそめ 伝説の銀座のマダム」が好きである。これらについてはブログで述べたことがあると思ったがデータが見つからない。ここに至って「女帝 小池百合子」がにわかに話題になっている。これがジャニーズ問題と無関係ではないのである。性加害を受けた人物が実名で告白しその行為が社会を動かしつつあるのだ。「女帝・・」では小池のいくつかの疑惑について述べられている。その一つがカイロ大学主席卒業という勲章である。この本を読んだ人間はそれが経歴詐称であると確信するはずである。だがこの疑惑はマスコミ、ワイドショウでほとんど話題にはならなかった。あまつさえ選挙結果にさえ影響しなかった。この本で重要な発言をしている人物Xサンはカイロ大学在学中のルームメイトである。この本が出版される頃には小池は日本の政界で隠然たる権力を持ちつつあった。実名で出ることに身の危険を感じたという。それで仮名での表記になっている。だがジャニーズの実名での告発に後押しされる形で文庫化されるのをきっかけに実名表記に変更したという。小池百合子の政策は一見まともに見える標語で表現されるがどれもが恣意的な解釈に満ちた自己都合に満ちている。嘘の原点は政界に取り入るために経歴詐称をしなければならなかったこの時期にある。次の選挙で都民が経歴を見逃すはずがない。面白い本である。文庫化で値段もお求め安くなっているはずだ。お薦めである。

パリの空の下ジャズは流れる

だいぶ前の話になるがウディ・アレン監督の「ミッドナイト・イン・パリ」という映画を見た。小説家志望の主人公が婚約者の彼女とパリ旅行に行くのだが12時過ぎると1920年代のパリにタイムスリップするという話である。あるパーティーに行くとそこにはS・Fジエラルドとゼルダがいる。ある時はピカソ、ヘミングウエイと文学や芸術の話をする。ダリ、コール・ポーターもいる。ライブハウスに行くとコクトーや黒人ダンサージョセフィン・ベイカーがいる。百花繚乱のパリ黄金期に取りつかれるストーリーになっている。その辺の文化事情の詳細が分かる本に出合った。それが「パリの空の下ジャズは流れる」である。1920年代から1950年代までの音楽、文学、映画、政治状況が一望できる。ジャズとクラッシックの相関関係、コクトーを通じてジャズとサティ、ドビッシーが影響し合う過程などエピソード満載である。どのページを読んでも小説のように面白い。毎日一話づつ紹介したいくらいだ。ジャンゴがいてルイ・アームストロングがいてエディット・ピアフがいる。スイングジャズの知識がある人には超お薦め本である。2段組み600ページの大作であるので秋の夜長にはもってこいの本である。
「パリの空の下ジャズは流れる」宇田川悟著 晶文社

「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著

折しもウクライナ戦争が勃発中にこの本と出合った。作者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチはウクライナ生まれ国立ベラルーシ大学を卒業している。我々がロシア文学について語る時、例えばドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、ソルジェニーツィン・・・国籍はと聞かれると口ごもってしまう。正直に言うと何か関係あるの・・と言う事である。因みにゴーゴリはウクライナ生まれである。日本の北海道の住人にとってウクライナとベラルーシの違いは栃木と群馬の違い程度であった。そういう意味でマイノリティーである。第2次世界大戦では両国民ともソビエト軍として戦っている。この本は女性の作者がソ連軍の兵士として従軍した女性のインタビューを元に書かれている。ここでまず驚くのがその軍務が多岐にわたっている事である。衛生兵や兵站の補給係りなら想像に難くないが狙撃兵、機関銃討手、攻撃砲隊長、戦車隊員となると日本的発想では追い付かない。日本で戦争は男性が行いは女性は銃後の支えが仕事である。ここでこの本のタイトルが重要性を帯びてくる。「戦争は女の顔をしていない」・・・・戦争文学で女性が主役になることはほとんどない。そういう意味で女性もマイノリティーに属する。マイノリティーであるウクライナ人が戦争文学ではマイノリティーである女性の性別を背負ってマイノリティーである女性兵士の事を書いているという構図になっている。そうすると戦争の違った側面があぶり出されるのである。延べ500人以上の女性の回答だけが墓地に並ぶ無数の墓名碑の様に佇んでいる。著者がどう質問したかは書かれていない。ここに掲載されている話に至るまでのイントロが有ったはずである。すべてカットされてテーマから入る。500ページのボリュームであるが一気に読む必要はない。一日2.3人の無名戦士の話を聴くだけで良い。戦争文学の傑作・・・例えば大岡昇平の「野火」等を読むと「もうわかりましたから、勘弁してください」という気持ちになることが有る。この本を読んでもそうゆう感情は湧いてこない。戦争期であっても日常や楽しいことだってあるという事実が散りばめられている。

平野啓一郎著「三島由紀夫論」

ブックレビューのコーナーなのに読んでもいないしまだ買ってもいない。月に二度とジュンク堂を舐めまわすように徘徊している。半日がかりである。勿論購入予定の本が何冊かは有るのであるが新しい本との出会いを求めて歩き回るのである。それは顔見せで客を牽く吉原の赤線地帯を歩くようなものだ。本が私を買って・・・と呟いているのが聞こえてくる時が有る。それが楽しみで本屋に出向くのだ。ネットで買って届けてもらうようなことはしない。その日は上記の「三島由紀夫論」他数冊購入するつもりであった。だが漬物石にもなろうかというそのボリュームに圧倒されてしまった。そして帯に書かれていたそして著者23年にもわたる渾身の力作・・・という推薦文に二の足を踏んでしまう事となる。もう一度三島の主要作品を読み直してから読もうと思った。平野啓一郎は三島の再来と呼ばれた作家である。処女作「日蝕」はこんな文章大学生が書けるの・・・と驚いた記憶が有る。三島の「金閣寺」は暗い吃音を持つ若い修行僧の生活を華麗な文体で表現している。その文体は遺作豊饒の海4部作まで引き継がれている。だが三島は純文学の読者以外の層を意識した中間小説的なものも多く書いている。70年代、10歳年下の大江健三郎が鬱屈した時代に性的なものでしか対抗できない若者の生態を書いて大学生に圧倒的な支持を受けた。その頃には押しも押されもしない文学会の重鎮になっていた三島が嫉妬していたと言う話を聞く。スランプ期にはテレビに出演し演劇や映画に手を染める一方ボディビルで体を鍛え薔薇族というゲイの雑誌の表紙を飾っていた。そして森田必勝という右翼青年と出合う事になる。1970年市ヶ谷自衛隊駐屯地でクーデターを呼びかけ三島と一緒に自決した人物である。この事件は三島事件と呼ばれ昭和の10大事件の一つに数えられている。だが思想的には森田事件と呼ばれるべき事件であった。三島が有名人であったからに過ぎない。「ライトハウスのリー・モーガン」というアルバムが実はベースのラリー・リドレーのリーダー作であったという事実に似ている。戦後三島は一貫して「自分はノンポリである」と言い続けていた。それが森田との出会いによって楯の会に繋がる政治活動として結実していく。森田は三島と初めて会った時「君は私の作品を読んだことが有るかね」と聞かれた。森田は「先生の作品は1冊も読んでおりません」と答えた。三島は下手にフアン的は人物が入会してくるようでは困ると言って森田を褒めたという。だが森田は全作品読破していたのである。1969年三島と東大全共闘の討論の事は以前映画のコーナーで述べたことが有る。その時森田も三島に何かあってはならないと会場に詰めていた。講演で学生に向かって天皇について述べてくれるなら行動を共にしても良いとまで発言している。天皇との近さにおいては三島はエリート意識が有る。何せ学習院を首席で卒業した際天皇から直々銀時計を賜わったことを誇りにしている。11月25日市ヶ谷駐屯地に向かう前「天人五衰」の最終原稿を編集者に渡している。そんな三島の人となりを含め全作品、そして三島の読んだ文献をも読み込み論を展開している。・・・・らしい。何せまだ読んでいない。だがとんでもない労作であることは分かる。平野啓一郎は信頼できる作家である。
話は少し飛ぶ。あるjazz研OBが高校の国語の授業の時村上春樹が三島由紀夫の影響を受けていると教わったと言った。村上春樹はSF.ジエラルド、Tカポーティ、Rチャンドラーの影響下にあり好きな作家はレイモンド・カーバやポール・オースターであることを知っている。僕は以上の事実をもって否定したが妙に引っかかる部分が有った。三島の影響かは分からなかったが日本的な香りがするところが有ったのだ。いつか三島を読み直さなくてはと思っていた。その後「村上春樹隣には三島由紀夫いつもいる」佐藤幹夫著を見つけた。2006年第一版である。その先生はこの本を読んでいたのだろうか。
付記
「みしま」と入力すると最初に「三嶋大輝」と出てきてしまう。それ程三島由紀夫とは遠ざかっていたと言う事である。

「セブンティーン」大江健三郎著

2023年3月3日大江健三郎が亡くなった。高校から大学にかけて僕は熱心な大江の読者であった。だがここ15年くらいは大江の本を開いていない。もう何年前になるだろう。大江の新刊が出た時、手には取ったが結局買わなかった。決別する時が来たように感じていたのだ。亡くなったと聞いた時代表作を一冊読んで追悼文書きたいと思っていたが中々手が伸びなかった。高校の時鮮烈な印象を持った作品を冒涜してしまいそうな思いに駆られるからだ。

まだ小学校に行く前の事である。親の言いつけを勘違いして自宅で一人かなり夜遅くまで留守番をしていたことが有る。電気くらい付けられたはずであったが何故か真っ暗闇の中で帰りを待っていた事を今でも覚えている。だんだん暗くなりこの世界に自分一人しかいなくなりその時間が無限とも思われるほど長かった。これが死の概念と繋がると知るのはだいぶ後の事となる。
次の文章は大江健三郎の「セブンティーン」の一節である。
「死ぬ瞬間の苦しみよりも、死を死に続ける時間の長さが途方もないことが恐ろしい、という感覚。
俺が怖い死はこの短い生の後、何億年も俺がずっと無意識でゼロで耐えなければならない・・・・」
この文章を読んだとき子供の時あの暗闇の中一人で膝を抱えて待っていた時の恐怖感の意味を分かったのだと思う。死と言う得体のしれないものを文章で示してもらった。少しだけ気が楽になった。だがそれを受け入れのにはその後半世紀掛かることになる。
そんなことを教えてもらった小説である。
合掌

戦争の作り方

この国が戦争に近づいているのではと危惧した有志によって製作された絵本である。
このブログを読んでいる方でお子様をお持ちの方は1100円の投資で次世代を救えるかもしれない。
クラウゼビッツは「戦争論」で戦争をできる3条件について述べている。
1. 政府の能力
2. 軍事力
3. 国民の理解と熱狂
この3要素が揃わなければ戦争は出来ないし、やっても必ず負ける。1は全くない。2は去年から慌てて準備している。3も主にテレビを通じて危機感を煽り植え付けようとしている。
戦争前夜の状況を次世代に引き継ぐことも必要かと思うのでおすすめ本とした。

コンプレックス文化論 武田砂鉄著

今日買ってきた本なので読み切ったわけではない。前書きを読んで目次を眺めていた。コンプレックからどのような文化が生まれてきたかを考察した本である。章別に色々なコンプレックスが列挙されている。天然パーマ、下戸、一重、親が金持ち、遅刻、背が低い、ハゲ等々。遅刻の章をぱらぱらめくってみた。ひよっとしたら日本jazz界の大御所Oさんの事が考察されているかと思ったが名前はなかった。この章は後でゆっくり読むとする。やはり気になるのはハゲの章である。僕はハゲに関しては新主流派jazzに関してくらいうるさい。僕の頭髪事情に関して説明しておく。20代の時から若白髪でアンドレ・プレビンのピアノくらい白かった。ぺいぺいの会社員だった頃上司と銀行周りをしていた時の事だ。融資課長が僕に向かって預貸の話をするのである。「あの、課長はこちらです」と言った時の融資課長の驚きの顔を今でも覚えている。会社の戻ってから上司に「お前髪染めてこい」と言われた。白髪は禿げないという言い伝えがある。ガセネタである。30代の半ばで円朝の怪談噺の様にバサバサ抜ける時期があった。いちおう会社員なので今の様にバリカンで五分刈にするわけにもいかず中途半端な髪型にしている時期があった。それでもハゲに悩んだことは全くない。僕みたい感覚を持っているのを「ポジティブハゲ」という事をこの本を読んで知った。こういう事を研究している人がいるのだ。「禿を生きる 外見の男らしさの社会学」須長史生著の中で「ポジティブハゲ」の問題点を3点指摘している。一点だけ紹介しておく。禿げた男性に特定のイメージが付着した男性像(明るい、精神的に強い、外見を気にしない)を要請しているとある。自分の事を言われていると思った。このような「ポジティブハゲ」によって救われるのはごく僅かであり有害ですらある。ええ・・・と思ったが思い当たる節がある。自分はある分野は気を使って話すがある分野は雑になる。相手の立場で考えることの大事さを思い出した。勉強になる。
禿げはありがたがられる抜け道がある。例えば「デブ」「ブス」と公式の場で発言したとしたら一発レッドカードである。ドリフターズのコントで加藤茶がハゲカツラを被って「あんたも好きね」と言ってもセーフなのである。それは坊さんの世界では毛が生えている人より剃髪している人の方が徳が高い気がするからである。この本でも述べている。瀬戸内寂聴が剃髪してるからこそありがたく話を聞くわけでサザエさんみたいにチリチリパーマだとしたらありがたくないでしょう。そうかもしれないと思う。
気持ち良く禿げているストーンズのキース・リチャーズがミック・ジャガーがナイトに叙勲された時のセリフがいかしている。知りたい方は本を読んでください。
付記
本の紹介と言うよりハゲ談義になったしまった。ついでなのでハゲネタを紹介しておく。今バンクーバーにいるマークが言っていた。カナダは髪の量で散髪代が違うらしい。
「俺ならいくら」
「マスターはほとんどタダだな」
臼庭と例によって駄洒落を言っている時の事だ。ミュージシャンにあだ名をつけていた。小樽の素晴らしいサックスプレーヤーOは時々フルートを吹く。「ハーゲーマン」でどうだというところで話は落ち着いた。回りまわって本人に伝わってしまいむっとしていたという話を聞いた。その時僕は「ポジティブハゲ」と言う用語は知らなかった。

点字からはじまるメッセージ 吉田重子著

著者の重子さんは月一回のlazyのセッションにはほとんど出席する。時々ライブにも来てくれる。ホストの本山にピアノを習っている方だ。著作のタイトルから推察できる通り視覚障碍者である。最初に来た日にはスティビー・ワンダーみたいな凄い人が来たらどうしようと思っていたが一緒に楽しんでくれるレベルで安心した。その事を重子さんに言うとちょっと悔しそうではあったが笑ってくれた。来ているお客さんはみな親切な方なので店内の誘導や、帰りも地下鉄駅まで送ってくれたりする。僕も時々迎えに行ったり送ったりする。すると今まであまり気にならなかった点字ブロックや地下鉄の転落防止柵の事が気になるのである。重子さんは僕のブログを読んでくれておりコメントをくれることもある。まずどうやって読んでどうやってコメントを書くのだろう。そして見送った後はどうやって帰宅するのだろう。食事は・・・買い物は・・・旅行は・・点字の楽譜はあるのだろうか・・・とかいろいろな疑問が湧いてくる。だがどこまで聞いていいのやら根掘り葉掘り聞くのも失礼かと思案していると良い本を紹介してくれた。それがこの本である。視覚障害に限らず一枚皮をめくると世の中色々な問題が山積している。勿論音楽界にもある。だがこの本では政治的側面にはふれていない。健常者の理屈で回っている現実を違った視点から見ることは非常に有意義である。そこには想像力が働く。想像力はどの分野にも役立つ。
重子さんは社会意識の高い方である。それはブログ「右往左往日記」を読むとわかる。一度覗いてみていただきたい。
最近は呆れる政治社会問題が多すぎる。重子さんと緩く話し合う場を持てないかと相談している。上記の本読みたい方はレンタルします。
付記
8月末からの一大イベントに暗雲が垂れ込めている。トピック欄をご覧の上ご支援を賜りたい
 

言語が違えば世界も違って見えるわけ ガイ・ドイッチャー著

前奏曲
英語では「あなた」に相当する言葉は相手が大統領だろうがjazz barのマスターだろうがyou
である。Thyというシェークスピア時代の古語はあるが置いておく。汝は・・・とかそなたは・・・というニュアンスだと思う。ところが日本語は「あなた」「あなた様」「君」「お前」「お前さん」「貴様」「てめえ」「おんどりゃ」「おぬし」など相手との関係性によって使い分けている。
話は変わる。欧米人には「肩こり」がない。という議論がある。以前カナダ人のマークに聞いたことが有る。肩こりは英語でなんという・・・答えは「shoulderache」であった。これは明らかにニュアンスが違う。コリは痛みとは違う。Stiff shoulderという近い単語はある。だがその時のマークは肩こりを知らないと言う事になる。
話は中国に飛ぶ。「中国には従妹はいない」と言うと全員そんなことはないと言うはずだ。だが中国語には従妹という普通名詞はないという。父方、母方、父母より年が上か下か・・・などですべて名称が違う。儒教の影響で親族に関する語彙が豊富だ。
日本は四季がはっきりしている。それで草木の色に関する語彙は豊富だ。例えば赤。赤、朱、臙脂、深紅、茜色、薄紅色、珊瑚色、薔薇色・・・言葉を聞いただけで色合いが思い浮かぶ。
この感覚はシベリアに住むロシア人にはわかってもらえない話だ。
英語では牛はオスとメスで違う名詞になる。それは牧畜文化による。こっちにすれば焼肉にすればどうでも良いのでは・・・と思うがローハイドに出演していたクリント・イーストウッドの前では言いにくいセリフだ
第一楽章
この長いタイトルの本は言語学の学術書である。長いが難解ではなく色々な例が豊富で本当に面白い。チョムスキーの有名な主張から始まる。火星人の科学者から地球を観察したら地球上のすべての人間は単一言語の諸方言を話している。この状況は映画「ET」を思い浮かべると何となく想像できる
第二楽章
海は葡萄色だ・・・と言われたら、おいおいちょっと待てよと言いたくなる。ホメロスの「ホメロス」と「オデッセィア」に出てくる。ホメロスの色彩感覚がおかしいと言う事でグラッドストーンという学者が全著作「色」に焦点をあてて調べた。「青」という表現は1回も出てこなかったという。海中の藻と海の色で葡萄色に見える瞬間がある・・・とかホメロスは色弱だったとかいろいろな仮説を立てた。どれも整合性がないのでギリシャ時代には青色のワインがあったはずだという仮説を立てワインに色々な物質を混ぜ青色にしようとしたが納得できる結果が得られなかった。学問というものはある種の狂気を含んでいる。感覚的にはシンデレラの物語で王子様のお妃になりたくてガラスの靴に無理やり足を入れようとする女性の心理に似ている。因みに一番多く出てくる色は白と黒である。
第三楽章
weという単語がある。私たちと訳される。英語でも日本語でも私が入っていれば全て私たちである。彼女と二人でいたとする。「私たち幸せになろうね」と彼女が言ったとする。僕と彼女の問題で隣の部屋のおばちゃんは関係ない。ところがあなたと私の二人だけの場合ジフト語では「キタ」という。何人か部員のいるJazz研の部室で「私たち明日lazyにライブ聴きに行きましょう」といった「私とあなたとほかの誰か」を意味する場合「タヨ」という。あなたと私以外の誰かの場合の私たちは「カミ」という。その全部を「we」いう一語で間に合わせるのはお前たちの言語は大雑把だと笑われたという。
第三楽章
左右の概念がない言語もある。ソースの左側にある醤油を取ってもらおうとする。
「ソースの北側にある醤油をとって」と言わなければならない。自分の家でなら東西南北は分かるかもしれない。他の家、ほかの街、ほかの国に行ったらまさに右も左もわからなくなるのではと思うかもしれない。それが素人の赤坂というものだ。その民族はどこに行っても東西南北が分かるらしい。こういうのを絶対位置感というのだろうか。
エピローグ
何せ厚い本なので全部はまだ読み終えていないがこの種の固定観念をぶち壊されるエピソード満載である。そして話を膨らませる。「言語が違えば音楽も違って聴こえる」と言う仮説を立ててみよう。この事は日本人のミュージシャンと付き合っている時にも感じていたがフランス人のマキシムのピアノを聴いた時確信した。リエゾンやアンシェルマンした時のフランス語に聴こえるのである。

ピアニストから社長になった僕の雑記帳 荒武裕一朗著

17周年記念ライブの最終日、荒武本人から頂いた。え!本も出しているのか・・・が最初に思ったことである。荒武との付き合いは5年ほどでそんなに長いとは言えない。ピアノは勿論素晴らしいのだがその誠実な人柄に惚れたのである。文章にもその人柄が溢れている。「多くの人と出逢いセッションを重ねてきた著書が感謝を込めて贈る珠玉の言葉」とキャッチコピーにある。こんなことを書かれたら僕ならちょっと照れくさ・テンになるがこの本を読むと素直にそう思う。売れなかった頃の思い出から本田竹廣さんとの出会い、珠也、臼庭との交流・・荒武がどう人と付き合いその関係を大事にしてきたのかが分かる。どうしてOwr Wing Record
を立ち上げるに至ったのか・・・。どの分野でもある話だが販売枚数優先の商業主義に対するアンチテーゼである。札幌出身の山田丈造や本山禎朗のアルバムも制作してくれた。そこにポリシーを感ずる。本の方はブログに書いてあったものがある出版社の方の目に留まって出版の運びになったと言う事だ。僕はその編集者を紹介しろと迫ったがけむに巻かれた。まあ、いい勝利はじぶんで勝ち取るものだ。タイトル今決めた「課長から店主になった僕の雑記帳」販売部数では負けないぞ。いかん、本性が出てきた。人格では荒武には敵わない。
社長は忙しい。だが毎日張りがあると言う。今も事務作業に追われているはずである。これは全くの偶然であるが本山のCDジャケットと同じデザインのCDを僕がYoutubeで見つけてしまったからだ。現在真相を調査中であるがジャケット作り直す考えを漏らしていた。そうなると今のジャケットの物はプレミアムが付くはずである。まだ購入されていない方はトピック欄をご覧の上お申し込みいただきたい。そしてその顛末は将来出版されるであろう「課長から店主になった僕の雑記帳」詳しく掲載されるはずである。

飛ぶ教室

タイトルは本の名前ではない。作家の高橋源一郎が司会のラジオ番組である。その中で毎週一冊本を紹介してくれる。先週紹介された本のタイトルは覚えきれなかった。内容は興味深く覚えているので紹介したい。第二次大戦下、戦地の兵士に本を贈る活動について記した本であった。当時ドイツではナチスの思想に反する書籍は焼き払う焚書運動が活発化しつつあった。宣伝相ゲッペルスの指導による。それに対しアメリカはどのような対策を取ったか・・・・
「我が闘争」や優勢思想を賛美する書籍を排除することもできたがそうはならなかった。敵が焼くならこちらは読まそう・・と言う事になった。一大キャンペーンの元全国から膨大な数の本が集められた。そしてそれらが戦地の若い兵士に届けられた。マーク・トウェインが人気だったという。退却あるいは脱出際、武器雑嚢を廃棄しても良いという命令が出た時も本だけをポケットにねじ込んだ兵士が多かったと聞く。死んでもラッパは放しませんという日本の軍隊では想像だにできない。当時はルーズベルトの民主党政権下であった。共和党から自党に不利になるような本は送らないようにしてほしいと要望が出た。それに対しジャーナリズムが「そんな細かいことに拘っている時か、敵はほかにいる」と論陣を張り政党を押し切った。当時のアメリカマスコミは健全に機能している。今の日本の忖度報道を見るにつけ隔世の感がある。
戦争は連合国軍の勝利で終わった。復員兵は優先的に大学に入学できる制度があり驚くべきことに在籍していた学生より押しなべて成績が良かったと言う。若い兵士はリタ・ヘイワースやジョー・スタッフオードのノスタルジックボイスで故郷に思いをはせてもいたが読書で知的好奇心も失わなかった。当時の政府が戦後の在り方まで熟慮したうえでの政策であった。知識は国を支える共通資本である。そして読書はその入り口になり得る。

タイトルは本の名前ではない。作家の高橋源一郎が司会のラジオ番組である。その中で毎週一冊本を紹介してくれる。先週紹介された本のタイトルは覚えきれなかった。内容は興味深く覚えているので紹介したい。第二次大戦下、戦地の兵士に本を贈る活動について記した本であった。当時ドイツではナチスの思想に反する書籍は焼き払う焚書運動が活発化しつつあった。宣伝相ゲッペルスの指導による。それに対しアメリカはどのような対策を取ったか・・・・
「我が闘争」や優勢思想を賛美する書籍を排除することもできたがそうはならなかった。敵が焼くならこちらは読まそう・・と言う事になった。一大キャンペーンの元全国から膨大な数の本が集められた。そしてそれらが戦地の若い兵士に届けられた。マーク・トウェインが人気だったという。退却あるいは脱出際、武器雑嚢を廃棄しても良いという命令が出た時も本だけをポケットにねじ込んだ兵士が多かったと聞く。死んでもラッパは放しませんという日本の軍隊では想像だにできない。当時はルーズベルトの民主党政権下であった。共和党から自党に不利になるような本は送らないようにしてほしいと要望が出た。それに対しジャーナリズムが「そんな細かいことに拘っている時か、敵はほかにいる」と論陣を張り政党を押し切った。当時のアメリカマスコミは健全に機能している。今の日本の忖度報道を見るにつけ隔世の感がある。
戦争は連合国軍の勝利で終わった。復員兵は優先的に大学に入学できる制度があり驚くべきことに在籍していた学生より押しなべて成績が良かったと言う。若い兵士はリタ・ヘイワースやジョー・スタッフオードのノスタルジックボイスで故郷に思いをはせてもいたが読書で知的好奇心も失わなかった。当時の政府が戦後の在り方まで熟慮したうえでの政策であった。知識は国を支える共通資本である。そして読書はその入り口になり得る。

原節子の真実 石井妙子著

まず原節子が最近まで生きていたと言う事実に驚く。42歳で銀幕を去ってそれから50年、ほとんど人前に出ることなく鎌倉の自宅で隠遁生活を送っていた。一線から身を引いた時期と小津監督が亡くなった時期が近いのでその事を関連付けた噂が流布され僕もそう信じていた。原節子は112本の映画に出演しているらしいが僕が見た原節子はほとんど小津監督の作品の中だけである。演じている役回りは献身的な母親だったり娘であったりする。最近「シネマレビュー」の「秋日和」でも書いたが主題と原節子の役回りが似通っていたりするので混乱することが有る。原節子自身も「同じ役回り」について不満を持っていたことを知った。僕にとっては驚愕の事実だ。強い師弟愛で結ばれていると思っていた。原節子の自薦の映画の中に小津の映画は入ってこない。その事を知っただけでもこの本を読んでよかったと思う。原節子には熊谷久虎という映画監督の義理の兄がいる。作風は黒澤明の様であるが才能は向こうの方が二枚も三枚も上だ。だが原節子はこの監督を評価し身内としても助けようとする。原節子は内面からにじみ出る演技を極めそれにふさわしい代表作を求め続けた女優であったことが分かる。だがこの業界に在りがちなことであるが看板スターになるとそのイメージを崩す役はやらせがらない。原節子は勿論美人であるけれどもそれだけではない聖母的な慈愛に満ちた美しさを秘めている。それを最初に見抜いたのはドイツのアーノルド・ファンク監督だ。昭和12年日独の合作映画「新しき土」でスター女優になる。当時のナチ宣伝相のゲッペルスとの記念写真もある。ファンク監督は言う「私が美人だと思った女優は二人だけだ」一人は原節子、もう一人はレニ・リーフェンシュタールだ。レニは女優から監督に転身しヒットラーの庇護下でベルリンオリンピックの記録映画を撮った人物である。原節子の目指す女優はイングリット・バーグマンである。I・バーグマンは単なる美人女優ではなくロマンスから活劇、コメディまでこなせる。原節子はそういうところに憧れていたのだ。そういえば二人は美しさの質が同じだ。
人は見かけによらないと言う事が良くあるが原節子の場合、見かけ通りだ。清楚なイメージ通り私生活も質素、人の輪の中に積極的に入っていくタイプではなかったが後輩の女優からは一番信頼されていた。あれくらいのスター女優になれば撮影所に会社の車で送り迎えもあったろうにいつも一人で電車で通っていた。以前テレビに日活のスター女優浅丘ルリ子が対談番組に出ていた。いつも撮影所には車で通っていたので国電の切符の買い方が分からなかった話を披露していた。人間の深みの違いを感じた。本田珠也というスタードラマーがいる。札幌に来てもらう時に後で清算するので航空券を自分で手配してほしいと言うと恥ずかしそうに「買い方が分からない」と言った。またドアを蹴破られると困るので「浅丘ルリ子か・・!」とは突っ込まなかった。話がアウトしてしまった。調性をB♭に戻す。
色々なエピソード満載で全部紹介すると原本より厚くなりそうな予感がするので辞めにするが原節子を語ることによって女優の在り方、映画産業の盛衰過程、日本の歴史まで取り込んでいるノンフィクションで実に読みごたえがある。最後に一つだけエピソードを紹介する。
引退してから生涯一度だけマスコミの取材を受けたことが有る。昭和20年米軍少佐が中国で一枚の日の丸を拾った。そこには家族、知人の寄せ書きがあり、持ち主は「正久君」と言う事だけしか分からない。ただそこには原節子のサインがあった。少佐はその日の丸を持ち主の家族に返すべく調査を報知新聞依頼した。新聞社は原節子に知人に正久と言う人物がいないか尋ねた。原節子の答えはそういうサインは何百枚としているので記憶がないと言う事であった。なぜ取材に応じたのか・・・。自分のブロマイドをポケットに入れ戦地に赴きそこで命を落としたかもしれない兵士たちへの最低の礼儀を通したのだと思う。

女帝 小池百合子 石井妙子著

小池百合子写真集なるものを見かけたことが有る。都知事になったころではなかったかと思う。当時人気絶頂とはいえ酔狂な物を出したものだなあと思っていた。兎に角目立つことが大好物の方だ。都知事になってからのパフォーマンスを列挙すると医療従事者を応援すると言ってブルーインパルスを飛ばす、「ステイホーム」という犬の「待て」を都民に押し付ける。コロナかるたで感染対策のやってる感を押し上げる。東京アラートと言って都庁を赤く染める。リオオリンピックの閉会式で極道の妻のように凛々しい和服姿で五輪旗を受け取る。
マスコミが求めるものは何でも提供してくれる。そしてそれによって出世の階段を一気に上り詰めていった。どんな人物なのか興味を持つ。そしてそれに答えてくれる本を見つけた。
「女帝 小池百合子」
昔、ニュースキャスターであったことは知っていたが番組は見たことはない。当時のテレビ東京の中川順に気に入られて抜擢された。カイロ大卒業という経歴、大きな目と「中の上」と言った容姿、ゴルフ、カラオケ、気の利いた受け答え・・・それが相まって道が開かれていく。
専門知識など全くないのだが度胸だけでやりこなす。弁舌も流暢だが中身はほとんどない今の都知事としての資質の原型がもうこの時に出来上がっている。時の権力者に取り入るのが天才的に上手い。細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎、財界ではオリックスの宮内義彦。小沢一郎にはゲッペルスになれると持ち上げられている。国会議員時代何をやっていたのかよく知らなかった。「クールビズ」も小池百合子の発案だった。そういえば昔半袖のスーツと言う奇天烈なものがあった。トヨタの社長や先の宮内義彦らも嬉々としてモデルを引き受けた。環境相時代水俣訴訟の責任者であった。マスコミがいるときは被害者と一緒に泣いて見せ、いなくなると爪を磨きながら陳情を聞いたと言う。
百人以上の関係者の証言を拾い集め小池百合子と言う彫刻を形作っていく。カイロ時代、一緒に暮らしていた早川玲子(仮名)の証言は謎の多いカイロ時代の生活の一部を教えてくれる。大学に通っている様子はなく、アラビア語も小学生レベルと言う事だ。大学を卒業するのも無理なレベルでましてや主席卒業など夢の又夢のはずである。
ところが「待てば海路の日和あり」大臣になってしまった。その時早川玲子は身の危険を感じたと言う。
権力者を手玉に取るが色恋沙汰はほとんど聞かない。ところがある著名人と恋仲だったと聞いて驚いた。そしてそのことが今の地位に微妙に影響している。相手の名は伏せる。ここからは有料サイトだ。ひょっとしたら知らないのは僕だけなのかもしれないが・・・・。
昨日も渋谷にはワクチン接種を希望する若者が列をなした。打たないのではなく打てない若者が多いと言う事がはっきりした。このキャンペーン費用7.5億である。
今もマスコミ向けにやっている感をアピールしている。そういう本性がこの本を読むと良く分かる。面白いです。
石井妙子の著作に「原節子の真実」がある。こちらも面白いがその中に原節子がゲッペルスと写っている写真がある。日独防共協定の関係で制作した国策映画の制作時期のものだ。小沢一郎がゲッペルスになれると言った言葉を思い出す。

ワンダフルライフ 是枝裕和著

是枝裕和は映画監督である。「万引き家族」でカンヌ映画祭グランプリを取っている。その監督の小説である。同名の映画もある。厳密に言うと小説の方のワンダフルライフは「小説ワンダフルライフ」がタイトルである。このこだわりが小説の成り立ちにも関係がある。小説が原作になって映画が製作されたのではない。映画の方が先なのである。かといって映像を文字に置き換えたのでもなく脚本を肉付けしたものでもない。僕は小説の方を先に読んで映画を見た。今の時点で思い出すのは映像の1シーンだったりするのだがそれが映像の方が勝っていると言う事ではない。映像と小説では表現する手法が違うと言う事なのである。監督も映画のモチーフを活字というフィールドに開放していく行為であったと述べている。
人は亡くなるとある施設に一度行く。そこで天国に行く前の1週間の間に「人生の中で大切な思い出」を一つ選ばなくてはならない。それをそこの職員が映画に再現して最終日に上映会が開かれる。死者はすべての事を忘れその思い出だけを心に天国に行く。その思い出を選ぶために死者は自分の人生を振り返ることになる。ある者は妻との平凡だが幸せだった日々を思い出し、ある者は少年時代に電車の運転手の後ろから見た風景の事を想い出す。ある男は毎日自分の女性遍歴を語り職員を辟易させる。だが最後に選んだ思い出は娘の結婚式だったりする。
映画ではこの役を由利徹が演じている。DVDにはカットされた由利徹の独白が収められているが思うにこれは由利徹の実体験で監督がフリーソロでしゃべらせている。
一週間で選びきれない者もいる。その人間はここの施設でほかの人間の思い出選びを助けることによって自分の人生と向かい合うのである。ここの職員は思い出を選びきれなかった人間なのである。
読み終わったとき自分は何を選ぶだろうと考えてみたが思い浮かぶことは結構つまらないことで感動的なものは皆無であった。だが自分の人生はその総体であると思っているので落ち込むことない。さすがに一つだけというのは厳しい。僕も死んだらここの職員になるはずである。
参考図書
「とりつくしま」東直子著
主題が「ワンダフルライフ」と並行調の関係にある。
こちらは死後一回だけ物として現生に帰ることができると言う話である。ある女性は野球をする息子のロージンバックとして甦る。息子はロージンバックで手の滑りを止めた後最後の一球を投げる。そして・・・・・
必ず泣けてきます。
いい話の後に恐縮だが思い出した話がある。山下洋輔さんのエッセイにも書かれているのだが、小山彰太さんからも同じ話を聞いたことが有る。山下トリオのツァー中バスを待つ間ぼーっとしていると自転車に乗った綺麗な女性が前を通り過ぎたのである。おもわず坂田さんが生まれ変わったら「あの自転車のサドルになりたい」と言ったそうである。

「彼女は頭が悪いから」 姫野カオルコ著

20日までの休業期間に読もうと思ってごっそり買ってきた中の一冊である。この作家は初めて知った。誰か信頼できる人が勧めていたからだと思うのだがそれが誰かは忘れてしまった。音楽でも本でも信頼できる人がいれば素直にその人の進めてくれたものを聴いたり読んだりする。僕はそういう風にしている。当たりはずれはあるがそれは自分の能力が届かなかったからかもしれないと作者に当たらなくても済む。あくまで信頼できる人のお勧めの場合である。
この小説は500ページ以上あるのでつまらなかったら2日間無駄にすることになる。いや・・面白かった。だが読後嫌な感じが残る小説なのである。2016年東大生5人が女子大生に強制猥褻行為のかどで逮捕されると言う事件があった。その後のネット情報の反応を機に書かれた。だが事件のノベライズでもないしノンフィクションでもない。小説でしか表現できない領域でこの事件の核心を問題提起している。ここに過激な性的描写は出てこない。だから事件は無かったと言っても良い。東大生も悪ふざけの領域として無罪を主張する。その親たちも上流階級の人間である。その女子大生を東大生を狙う性悪女としかとらえていない。格差社会がはっきり見えてくる。ある飲み会に美咲は誘われる。少しの期間付き合った東大生「つばさ」も来るからだ。美咲はその日つばさに一言だけ伝えて別れようと思っていた。二次会で学生のマンションに行く。ネットには「酒飲んで男の家に行ったら了解したことでしよう」とのコメントが流れる。勘違い女として世間から誹謗中傷される。美咲は「ネタ枠」で呼ばれたのである。宴会を盛り上げる役目である。その用語が痛い。東大生の親たちは示談に持ち込もうとする。美咲の出した条件はただ一点だけである。それはここには書かない。
ある犯罪が起きる。真実を見出そうと報道あるいは裁判が起こされる。だがそこには不可解なもの、闇の部分が必ずある。小説にはそこに言及できる力がある。
篠田節子は次のように総括する
「性的興味の対象である女性に加えられた性暴力」ではなく「モノとみなされた下位の者の心身に対して振るわれた遊びとしての暴力」

正欲 浅井リュウ著

正欲であって性欲ではない。でも少し性欲の事でもある。まず自分の事を考えてみる。少し頑固な所はあるが趣味、嗜好、性癖、思想どれをとっても万人が理解できる範囲であると考えている。ジャズのライブバーを細々やっているが一応認知されている職業ジャンルである。支持者がウィグル自治区の少数民族ほど少なくてもここでは問題にはならない。社会的に認知されているからである。そして今まで会ってきた人の趣味、嗜好も自分では興味がなくても理解できないことない。釣り、競馬、パチンコ、大丈夫だ・・・犬猫ウサギ、蛇、まだ大丈夫だ・・・「水が流れ出る蛇口」と言われるとノッキングを起こした車のように思考が止まってしまう。この小説には蛇口に特殊な思いを抱く人物が出てくる。世の中には一般の人が想像つかないような嗜好を持つ人がいて人知れずこっそり暮らしている。ジャズのように名前の付いたジャンルはまだいい。「わかるよ」と言われる辛さ。
見渡す限りの情報の海、独立して見える情報はすべてあるゴールに収斂されて見える。
「明日死なない為に」
明日死にたくない人は他者が人生にあらわれた人の言葉である。
この書の中の偽装夫婦は契約する。
「生き延びるため手を組みませんか」
付記
しょぼいフリージャズを聴かされる羽目になったことが何度かある。背中に「フリージャズ」という看板が下がっていた。一応フリージャズも認知されたジャンルである。

安倍三代 青木理著

どのような環境であれば安倍晋三元総理のような人物が出現するのか興味があった。少なからずこの本で理解できた部分はあった。だがその暗部はコロナウィルス変異株のように解明されていないのが率直な感想である。父は安倍晋太郎、母方の祖父が岸信介である。当たり前であるが父方の祖父がいる。阿部寛という。ほとんど知られていないし安倍晋三からもほとんど名前を聞くことはない。山口県の大地主で真面目で優秀で土地の人から敬愛されており、安倍晋三はその地盤を引き継いでいる。阿部寛は反骨の政治家で「富の偏在は国家の危機を招く」との訴えは現在にも通用する警句である。初めて衆議院に立候補した1937年には日本が国際連盟を脱退し日中戦争の泥沼に足を突っ込んだ年である。演説会には警官の目が光り中止に追い込まれることもあったと言う。だが地元村民の人望があり翼賛会の推薦なしで当選した。どう考えても安倍晋三とは対極にいる人のように思える。安倍晋太郎は家どうしのいざこざから母親なしで育てられた。政治家としては印象が薄い感があるが必ずしもそうではなかった。父同様東京帝国大卒で非常に優秀であった。地元の在日にも慕われるリベラリストでもあった。1985年の国会答弁で衆目を集める発言があった。戦争責任について次のように外務大臣として述べている。
「わたしもやはり第二次世界大戦は日本を亡国の危機に陥れた謝った戦争であると思っています。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判があるわけであります。そうした批判にたいして十分認識してこれに対応していかなきゃならない・・・・」
当たり障りないと言えばそれまでであるが保守系政治家としては実にバランスの取れた意見であると思う。晋三のように「侵略の定義は定まっていない」などど歴史修正主義に走ることはなかった。どう考えても祖父、父親の思想はDNAに組み込まれていないとしか思えない。悲願の憲法改正は溺愛された岸信介に捧げるオマージュに思えてくる。地元の人にも「晋三さんは東京の人だから・・」といまいち愛着のある意見は聞かれない。晋三は小学校から成蹊学園で一度も受験を経験したことがない。同級生の人物評も「いたって普通、成績もよくもないが悪くもない」との感想が多い。ギターリストの加藤崇之の意見は載っていなかった。教官の意見も「可もなく不可もなく」が多い。ただ憲法の指導教官が総理の安倍晋三に会った時憲法を勉強する際必ず読む憲法学者の名前を知らなかったのには驚いたと記されている。枯葉を知らないでjazzミュージシャンになったようなものだ。ここまで書いてもあの極右思想と超お友達優先思想の萌芽は読み取れない。阿部寛、安倍晋太郎の章は面白かった。

「スクールデイズ」 ロバート・B・パーカー著

スペンサーと言う私立探偵が活躍するハードボイルド小説でシリーズ化されている。一作目が出てから優に30年は経っていると思う。20作目位までは新刊が出るとすべて読んでいたが一度離れてしまった。この「スクールデイズ」の間に5,6作あるようだ。曖昧な紹介で話を始めるのは心もとないが調べるのが面倒くさい。古今東西有名な私立探偵は多い。ダーシル・ハメットのコンチネンタルオプ、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ、ロス・マグドナルドのリュー・アーチャー、ミッキー・スピレーンのマイク・ハマーそして原遼の沢崎。それぞれ個性的だ。マーロウは陰影に富んだ人物として書かれているがスペンサーは分かりやすいキャラクターである。マーロウがT・パーカーだとするとスペンサーはP・ウッズを通り越してバップの大衆化を目指したチャーリー・ベンチュラと言ったほうが良い。深みはないがわかりやすい。スペンサーはそういう探偵だ。現在のような閉塞感の漂う時期にはちゃんと仕事をしてくれる人に会いたくなる。そういったことでこの本を手に取った。
アメリカでは学内での銃撃事件が後を絶たない。「スクールデイズ」もボストン郊外で起きたハイスクールでの銃撃事件が発端である。犯人は最初から分かっている。二人の高校生で投降し自白もしている。謎ときのドキドキ感はない。逮捕された生徒の祖母が「孫は無実」とスペンサーに調査を依頼する。人はみな彼らの行動を動機づけしようとする。スペンサーは何が起こったのかを知りたいと理由だけで奔走する。犯人の親、学校の関係者、警察でさえも忌まわしい事件として葬り去りたいと考えている。事件の裏にある闇の部分が次第にあきらかになっていく。その過程は読んでのお楽しみ。400ページ弱のボリュームだが一日で一気読み。面白い。
ここではスペンサーの事を紹介しようと思う。体は大きい。身長も体重もシリーズのどこかに書いてあったが調べるのが面倒くさい。兎に角大きい。照ノ富士くらい大きい。多分。ヘビー級でボクシングをしていたことが有る。だから強い。強いと言いたいことが言える。「スクールデイズ」でもほとんどヤクザまがいの悪ガキをぼこぼこにしてしまう。おいおい小説とは言えやりすぎではと思う事もある。酒はバトワイザーが好きである。いも美ではない。以前はタバコも吸っていたが「スクールデイズ」では吸っていない。いつ辞めたのか・・・アメリカでも値上がりしたようだから・・・もらい煙草はしていないようである。偉い。探偵としては警官とも関係が良好である。裏組織にもコネがあって情報の収集が早い。と言う事は捜査が早い。ちょっとご都合主義の所があるが読者あっての探偵稼業だ。大目に見よう。今回は登場しなかったが精神科医の彼女がいる。知的で美人でちょっとセクシーだ。キャサリン・ターナーがハマると個人的には思っている。ホークと言う黒人のマブダチもいる。こちらもめっぽう強い。二人いるとランボーとターミネーターがタッグを組んでいるようでどんな悪の巣窟に踏み込んでも安心感がある。探偵小説、ハードボイルド小説と言うのは女性にあまり人気がない。マッチョイズムが横溢していたり逆に一人センチメンタリズムに浸っているからだったりする。だがこのスペンサーシリーズは女性にも受けが良い。登場人物にキャリアを積んだ生き生きとした女性が大勢いてスペンサーが敬意を払っているのがわかる。間違っても「女性がいると捜査が長びく」とは言わない。
数あるシリーズの中で「スクールデイズ」から読むのが良いかどうかは分からない。一作目から読むには数が多すぎる。「初秋」はお勧めできる。