今日は本の紹介である。「リリアン」は岸政彦の小説集の名前である。村上春樹がマイルス・ディビスだとするなら岸政彦はギル・コギンズくらいマイナーだ。マイルスの名盤をたどっていくと忍耐力のある人はギル・コギンズと出合う事になる。岸政彦はそういう立場の人だ。本業は社会学者で研究テーマは沖縄や生活史と言う分野だ。その専門分野の著作は社会の中でひっそり生きている人の人格を「聴き集め」と言う手法で浮かびあがらせる。学術論文とは思えないほど豊潤で美しい。
この小説は大阪の片隅で暮らすジャズベーシストと酒場で知り合った女性との小さな小さな物語である。二人でコルトレーンの「ボディ&ソウル」を聴くシーンがある。説明するより読んでもらった方が早いので引用する。
下でずっとベースがささえる音をな、それも一つの音だけをずっと弾くねん。で、その上でテナーとピアノが自由に、完全に自由ってわけちゃうけど、まあ大体自由に動けるねん。
ほな、ほんまにうかんでるねんな。
そう思う
そういうのって音で決まってるの?
そう
やっぱり、なんか怖いな
怖い?
音楽って、なんか怖い
そう
音で決まっている感じ。人間が要らん感じ。
あ、前も言うとったな。
うん
ほんまやな。
人間が音を弾いてそれが伝わるとちゃうねんな
うん。
人間が生まれてくる前に、それより先に、音の順番みたいなものが決まっていてその後に人間が生まれてきて、だからそういう順番の音を聴くとそう感じるようになってるねんな
俺もそう思う。
怖い
怖くはないやろ。
そやな。怖いっていうか。不思議?
俺たち要らんみたいやな。
そんな感じする。
綺麗な音の順番とか組み合わせが、地球に人間が生まれてくる前から決まってるんやったら、俺たちみたいな場末のミュージシャンがやってる事って何やろな
そういや私まだちゃんと演奏聴いてないな
聴かんでええよ。
以下続く。
二人はジャズのこと、街の風景、今はもういない人々の事を語り合う。市井で淡々と生きる人の言葉が響き合う。ここの大阪弁はふわっとして包み込んでくれる。僕も鈴木央紹に大阪弁を習っているが何か嘘くさいと言われる。どこが、違っとるねん、完璧の母やで・・・・・
あのな
・・・うん
もっかい、リリアンの話して。
・・・なんで
ええから
読者の皆さん「リリアン」が何か気になりだしたでしょう。
わし、教えへんで、本買ってな。ほなバイなら。
参考文献
「断片的なものの社会学」岸政彦
「ビニール傘」岸政彦(小説)
どちらも自信をもってお勧めする。
月: 2021年3月
聖火リレー
3月25日福島から聖火リレーが始まった。大阪府 では266人感染確認、緊急事態宣言解除後最多である。この儀式の為に解除したとしか思われない。一気にオリンピックへの機運を盛り上げようとのアンダーハートが見え見えである。政府高官は宣う。「開催が前提だ。聖火リレーが始まったらもうやめることはできない」あれっ、この馬―鹿ーフレーズ聞いたことあると思うのである。真珠湾攻撃から始まった戦争が沖縄決戦まで続けざるを得なかった大本営に酷似している。パーカーフレーズのコピーは歴史を学ぶことに等しい。馬ー鹿フレーズは歴史をスィーブ愚弄すマンである。初日トーチの火が消えるアクシデントが2度あり予備の火で点火しなおした。「聖火」とはその程度の価値しか無い。 新興宗教が販売するご利益があるとされる「聖水」と同じようなものである。そもそも聖火リレーが始まったのはヒットラー政権下のベルリンオリンピックの時である。国威高揚のセレモニーとしてであった。このセレモニー全国合わせて50億の予算が掛かる。単なる「火」のリレーが国民的イベントとして押し付けられ、スポンサー企業の宣伝車を先頭に喧騒なパレードが繰り広げられる。
震災の影響が色濃く残る双葉町の映像を見た。聖火ランナーの走るコースは駅前をぐるぐる回るだけ。道路一本入ると無人の街並みが続く。復興の証としてのオリンピックとは1万光年のひらきがある。
「火」のリレーは火遊びである。子供の頃火遊びをするとおねしょをすると母親に言われたものだ。お漏らしはシーツを取り換えれば済むが放射能の漏れは取り換えるシーツがない。
詭弁と暴言worst 3
菅総理大臣「政治責任という定義は無いんじゃないでしょうか?」
加藤官房長官「虚偽答弁については、必ずしも固定した定義は国会の中において、あるとは承知していない」
こんな低劣な答弁が無批判に垂れ流されている。政治部記者の倫理観はどこへ行った。
Where have the flowers gone ,long time passing ♪
麻生財務大臣
「マスクなんて暑くなって口の周りがかゆくなって、最近皮膚科がはやっているそうだけどいつまでやるんだね。真面目に聞いているんだよ俺が。あんたら新聞記者だからそれくらい知っているんだろう。いつまでやるのこれ。」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。誰も好き好んでマスクをしているわけではない。稀に化粧するのが面倒でマスクでごまかしている女性が30万人くらい入るかもしれないがそれは例外だ。国民にお願いしておきながら自分は守ろうともしない特権階級意識丸出し。そしてそのお言葉を唯々諾々とこうべを垂れて承る大手マスメディア記者。「悪い子はいねえか」となまはげに脅されて大人しく従う子供そっくりだと思うのである。僕は腹が煮えくり返るのであるが周りにはそういう人はあまりいない。
「まあ、そんなに怒りなさんな・・・君子危うきには近寄らず、清濁併せのむのが大人と言うものではないですか」という天からのお告げが聴こえる。
あるいはあんな不遜な態度をとっても誰にも何も言われない地位こそ最高と思っている人の方が多いと言う事はないと思うのだが・・・・
今の時代斜に構えたほうが生かしていると言う事か
オリンピッグ問題
演出に豚の格好をした渡辺直美を使おうとしたディレクターが叩かれて辞任した。世界に発信するレベルのアイデイアではない。この人物は先のオリンピックの閉会式で安倍総理にマリオの格好をさせて日本の総理のレベルの低さを世界に知らしめた人物でもある。御多分に漏れず電通関係である。
森喜朗前委員長同様女性蔑視の観点から論評されている。女性に豚の格好をさせるとはけしからん・・・と。ここで一度?マークがつくのである。豚だからダメなのか・・・。そうではない。容姿によって差別してはだめだと言う事である。女性ピアニストのTに意見を聞いてみた。豚はやはりいやだと言う。「鹿は」「微妙」「鶴は」「それも微妙」なんだったら許せるかと聞いた。「猫」・・ここに落ち着く。猫がだめだったら劇団四季は商売あがったりになる。僕は豚は可愛い動物という認識なので文脈を無視して女性蔑視と言われるとピンとこない。どちらが菖蒲か燕子花・・みたいな日本文学の根底に通ずる表現もダメなのかと疑問は次々に沸く。実際学生の頃「白豚ちゃん」と呼んでいた女性がいたが彼女から訴えられることはなかった。イスラム圏では豚は不浄な動物と言う事になっている。その動物に女性を例えるとは論外であるという主旨の記事が中東で掲載された。プロデュースと言う仕事はその程度の文化の違いが判る見識を持つ人間に任せなくてはならないという事である。
渡辺直美のコメントが新聞に載っていた。非常にしっかりした内容で好感度上がる事確実である。だがこの種のコメントを聞くと喉に小骨が刺さったような感覚にとらわれる。あの体形があってのビヨンセの物まねではないのか。昔の渡辺直美なら、と言うより所属事務所はこの仕事に飛びついたはずである。豚の格好でオリンピック・・・これで一生食べていけるお胸をなでおろすはずである。「狩人」が「あづさ二号」一曲で食べていけるようなものである。たとえが分からない・・・・。ジャズフアン為のたとえである。アーマッド・ジャマルが「ポインシアナ」一曲で食べていけるようあののである。分からない・・・。ビートルズが「yesterday」一曲で・・・・もういい。あそ・・
昔グラビア誌に惜しげも無く裸体をさらけ出していたタレントがひょんなことから人気が出て演技派女優に舵を切る時現れる光景と同じ位相である。 ちょっと前『人間見ためがすべて』(タイトルうろ覚え)と言う新書が結構売れていた。容姿端麗、有名大卒を採用しておけば空くじなしという企業の思惑だってある。容姿が全く関係ない女性と言うのは世界でただ一人母親だけである。
大事なことが最後になった。「えっ、まだオリンピックやる気なんだ」と言う事である。オリンピックなんかやったって「コロナに打ち勝った証」なんかにはならない。「分別ある政権の証」としてオリンピックは中止してほしいい。4兆円の経済効果など利権がある者のへの中元話である。
記憶の行方
今国会で「記憶にありません」と言うセリフが流行っている。総務省とNTT、東北新社との接待に関する質疑の時である。ロッキード事件の時小佐野賢治や児玉誉志夫が多用していた。
注意を払う必要がないもの」は「記憶にありません」が許されるが「注意を払う必要が絶対的にあるもの」では許されない。彼女の誕生日のデートの日「ちょっと変えてみたんだけど、どう」と聞かれたとする。髪型なのか、口紅の色なのか服装の趣味なのか・・・細心の注意をもって答えなくてはならない。「記憶にありません」では執行猶予なしの実刑判決を食らう。僕は50年以上前の学祭の時に着てきたブラウスの色を間違っただけで今でも咎められる。
話は全くそれてしまった。今国会で問題になっていることは例えば踏切を渡る時「警報機は点滅していましたか」と「手前にあったコンビニのポスターは見ましたか」の違いである。
不正疑惑は前者で「記憶にありません」は許される返答ではない。だが皆安々と追及の網を潜り抜けてしまう。論理矛盾を突く質問がないかと考えていたら戦史研究家の山崎雅弘氏が鋭い指摘をしてくれた。問うべきは「特定の話をしたか、しなかったか」ではなく「そのような話をしてはいけないと注意を払う努力をしたか否か」であると言う。公務員は倫理規定で利害が絡む話はしてはいけないことになっている。だから宴席であっても細心の注意を払っていることになる。「記憶にありません」という返事は国家公務員失格を意味するからである。だから「その努力をした」と答えたとしたら「努力したのなら『その話はしていない』と明言できるはずですね」と追及の手を緩めない質疑ができる
総理や大臣、官僚が記憶力の悪さを競い平気でうそをつき通す。拙い詭弁で居直る態度の下劣さに辟易するが諦めてはいけない。こんな国の状態で次の世代には渡したくはない。
日本映画探訪記vol15 戦場のメリークリスマス
この映画監督大島渚は軍隊経験がない。それまでの戦中派が制作した戦争映画とは一線を画している。軍国主義を叩き込まれて皇軍として戦地に赴きそして完膚なきほど叩きのめされた恨み辛みが全編を支配している映画はそれが娯楽映画として制作されていても暗い影を引きずっている。この映画は情話としての戦争映画を否定している。設定はインドネシアの捕虜収容所と言う事である。坂本龍一演ずる所長とデビット・ボウイ演じるイギリス将校とのホモセクシャルをにおわせる関係と北野武が演じる軍曹と通訳の将校ローレンスの奇妙な友情を縦糸、横糸で物語は進行していく。女性は一人も出てこない。映像も妙に明るい。坂本龍一のヨノイ大尉はYMO時代の化粧を施されている。当時映画館で見た時は教授が大写しで出てくる場面を写真に収めている女性がいたものだ。
捕虜収容所の生活が日本の視点のみならずイギリスの視点でも描かれている。デビット・リーン監督「戦場にかける橋」に共通するものを感じた。
大島渚監督は「大日本帝国」と「連合艦隊」に出演した俳優は絶対に使わないと言ったそうである。それで坂本龍一や北野武やデビット・ボウイといった素人が重要な役で出ることになった。うまい演技とは思ないが映画の出来の足を引っ張っているとも思えない。デビッ・ボウイには敬意を払いパントマイムをさせている。
エンディングも坂本龍一の作曲したメロディに乗せて北野武が「メリークリスマス、ミスターローレンス」と繰り返すセリフで終わる。妙に明るい。情話を排している
16周年
16と言う数字は何か不安定な印象がある。16歳が一番多感で感覚的には研ぎすまれている時期だ。すべての者になりうるし未だ何者でもないという背反する感情に苛まれる。
もう一年たったのかと言う印象と同時によく一年もったなあという感慨にとらわれる。15周年は節目の年であった。豪華なメンバーを呼んで周年記念ライブを華々しくやる予定でいた。其の二弾目の前日東京で非常事態宣言が出た。米木からは本当にやるのかと念を押された。僕はコロナなんて平ちゃらさと言うマッチョ主義ではないが予定通りやろうと思った。コロナ禍は長く続くだろうと考えていた。そいう状況下でやり続けていく度量が自分には有るかどうか見極めておく必要がある。豪華なメンバーとは裏腹にほとんどお客さんがいない状態で熱演が繰り広げられた。その時思った。ライブに行くことは不要不急の外出ではないと・・・・。
自分の役目は地道に続けていくことである。見ている人は分かってくれるはずである。
3月が開店記念月であるが毎年悪天候に虐められるので4月と5月にずらして開店記念ライブを行う。4月がLuna、5月には池田篤、若井俊也、山田玲に来てもらう。こちらのミュージシャン、社会人、学生との交流の場面も用意してある。自分が手を伸ばせばつながる場面も多々ある。毎月一組は東京から来てもらおうと思っている。東京は8時までの時短要請だ。Jazzのライブは不完全燃焼で終わることが多いと言う。前回の松島もこんなに多いお客さんの前で演奏したのは久しぶりだと言って燃えに燃えた演奏をしてくれた。そういう東京のミュージシャンにとっても意味のある企画と考えている。来れる方は足を運んでいただきたい。これない方はその音源CDをご購入いただくことによってご支援を賜りたい。
付記
池田篤がソロアルバム「スパイラル」とレギュラーカルテットで「Free bird」2枚のアルバムをリリースした。どちらも素晴らしい出来である。「Free bird」のspecial thanks欄を眺めていた。辛島さん、小曽根さん、山下洋輔さん、マーカス・ベルグレイブと同じ列に僕の名前が有ったのでびっくりした。このアルバムに関し何も骨を折っていない。感の良い僕はバンマスの気持ちを忖度した。しっかり、売るように・・・のはずである。と言う事でぜひご購入いただきたい。販売成績が悪いとno thanks欄に名前を移されてしまう。
「スパイラル」¥2200
「Free bird」¥2500
HPライブ予約欄より予約願います。後の手続き説明いたします
日本映画探訪記vol14 動乱
2・26事件を題材にした戦争映画であるが恋愛映画でもある。当時の東映のお家事情を反映した内容になっておりその後のこの手の映画の方向性を示した作品になっている。主演は高倉健と吉永小百合。これでどうだ・・・と言うゴールデンコンビである。僕は40年ほど前、封切で見ている。細部はすっかり忘れたが高倉健演じる青年将校の妻になった吉永小百合が「これで私を買ってください」と言って金を渡しながら泣き崩れるシーンだけは鮮明に覚えている。戦争映画は男臭さが売りで女性が主役になることは少ない。内地で家庭を守る主婦だったり、「ひめゆりの塔」の従軍看護士だったり、「女衒」の従軍慰安婦だったりする。要は戦争映画は女性に人気がないと言う事である。女性に来てもらうにはどうすればよいかとプロデュサーの岡田裕介は考えた。そして戦争映画に大胆に恋愛を持ち込むと言う手法を編み出した。岡田は最近亡くなったが吉永小百合の最大の理解者で吉永小百合の希望は全部飲むことで有名だった。岡田は高倉健と吉永小百合に断られたら企画そのものを諦める不退転の気持ちで臨んだ。この二人でなければ観客を納得させられないと考えていた。だがその事を強調するあまり史実がかなり歪められている。クーデターの首謀者たちは貧しい農民出身で腐敗した政財界と癒着する軍上層部に叛旗を翻す美談として語られている。批評家によっては最大の愚作と扱き下ろす。恋愛映画なのだからそんなに目くじら立てなくても・・・と言う考えが東映上層部の方針である。風景を変えそこに主役の二人をはめ込んでいく。酷寒の大地で晒し者になった吉永小百合を抱きかかえる健さん、きらきら光る水面の海岸を歩く二人、ラストシーンは一人歩く吉永小百合の歩みに合わせて泣け・・この野郎とばかりに小椋佳のバラードがかぶさってくる。
もう2・26だろうが5・15だろうが3・14だろうが関係なくなってくる。だが映画はそれで良いのであろうか・・・・
付記
極楽jordu日記その3
今日の母親関係の作業は会葬御礼の発送だけで勘弁してもらった。僕の関係でいただいた方には儀礼的なので失礼させていただいた。中身は海苔である。乗りの良いライブを企画することで其れに変えさせていただきたい。後は自分の給付金申請と松島のCDの発送に時間を回した。
コロナ禍と株価
コロナ禍と株価
コロナ騒動の前、安倍総理の頃の経済指標の事を想い出してほしい。「株価は堅調でデフレを脱却しつつある」と・・・。株価が経済状況を反映しているかのような発言があったが真っ赤な嘘であることがコロナ禍ではっきりした。コロナ禍が続くほど株価は上がると言うのが金融界での常識である。金融緩和で行き場を失った資金が株式市場に流れ込む。不動産も原油も高騰している。世の中の仕組みが歪んでいて政治は機能不全に陥っている。何か解決策があるのでは常々思っていたがそれを示唆する本と出合った。
人新世の「資本論」斎藤幸平著
ぜひ読んでいただきたい
付記
極楽Jordu日記その2
母親の携帯の解約に行く。解約は営業店に行く必要があると言う事で足を運んだ。すると予約が必要だと言う事だ。まずその事を言ってほしい。体は二つ無い。二日後再来店する。すぐ終わるものと思っていたが思わぬところで躓く。名義が母親になっていないとのことである。ここからが問題である。解約の「入力」ができないので解約作業ができないとの論理であった。
「入力」できる出来ないかはそちらの問題でこちらは「解約」に来たのだとごねる。その都度奥に入って上司と相談しているようだ。可能性が有る名前を挙げてほしいと言う事である。
「吉田伝」はいりません
「吉田直」外れました
「井上栄子」残念!
おいおい、こちらはクイズやりに来ているわけではないからな。・・・と段々不機嫌になる。
7番目でヒットした。やれやれ。僕の従妹の娘の名義になっていた。段々思い出してきた。その子を孫のように可愛がっていたのだ。その子が叔母さんにと言って買ってくれて設定もやってくれたのである。二時間かかって現生のしがらみを1個だけ解いた。
陰謀論
関東圏では緊急事態宣言が二週間の再延長になった。禿親父がキャバクラに行って若い子に言い包められて延長に次ぐ延長を重ね、ぼられるのとは訳が違う。自粛を強いられたのはウィルスを除去するためではない。ウィルスはなくならない。医療体制整備の時間を作るためであったはずだ。再延長は医療体制整備に失敗したと言う事である。その失政の為に国民は又我慢を強いられ無駄な税金を投入しなければならない羽目になる。これほど政府が感染症対策に迷走すると「陰謀論」が頭をもたげてくる。この手の話が好きな人はかなりの確率でいる。店でも何度か拝聴した。「どこかに極悪人がいて自己利益を図るために適切は政策実現を妨害している」と言うものだ。だがこの論理では追い付かないくらい統治機能が支離滅裂、機能不全、卍巴、である。ワクチンの容量に合う注射器がなかったり、保管する冷蔵庫が壊れたり、輸送スケジュールは製薬会社任せだったり、もっと根本的なことを言うとなんでワクチンぐらい日本で製造できないのかと言う事である。費用対効果が悪い分野には金を回さない国の方針になってしまったのだ。だからいざと言う時に困る、真っ当な対策が取れない。悲しいかな二流国になり下がってしまった。
付記
極楽jodu日記
母親の家のガスの閉栓の日だった。携帯が鳴った。北ガスからの待ち合わせの時間確認と思い電話に出たが郵便局であった。届け物が実家に来ているらしいが家ごと雪に埋もれていてとても郵便受けに行けないらしいとのことだ。先日豪雪以来実家には行っていない。まずい。家に入れない。指定時間の3時間前であるが出動することにした。ご近所でスコップを借り取りあえず家に入れるようになるまで一時間半の雪掻き。腰が痛い。この日の目標、重要書類の捜索、ガスの閉栓、生ものの処分。食べられるものは食べてあげる、その方が母も喜ぶ。
寝不足なので肉体的疲労は堪える。早めに撤収。
2021.2.26~27 松島啓之4&5
松島啓之(tp)本山禎朗(p)三嶋大輝(b)伊藤宏樹(ds)・・With江良直軌(bs)
松島を何度も聴いているが、いつも円熟の中に新鮮さを感ずる。何故だろうか。20代の松島には“Something Like This”という力作がある。そこは瑞々しい力感に溢れている。その後の活動プロセスには、若き日の核心部分が劣化することなく寄り添っていると思われる。おそらく松島は昔も今も同じ合鍵を使って演奏しているのだ。
最初の数音で生き返ったような気分になった。飛び切り音が突き抜けて来たからだ。ここにはホールでは味わえない至近距離感があり、音楽会ではなくライブ、Jazz Lives Matterなのだ。初日はオーソドックスな4人編成で、トランペッターの曲を中心にプログラムされており、松島の演奏を思う存分聴くことができた。改めて音のニュアンスの多彩さに息を呑み、相当ニンマリしていた自分が想像できる。2日目はバリトン入りの2管編成。J・マリガン、P・アダムス、C・ペイン、S・チャロフ。バリトン奏者の名前は一気に底をついてしまった。コンボ編成では多くを聴いて来なかったのだ。江良の音を聴いていて、当たり前だが、その重厚な音色を直に確認することができた。初日と異なるサウンド・カラーに出遭えたことに何ら不満はなく、寧ろ大いに楽しませてもらった。カルテットの演奏曲は「Back To Dream」、「Miles Ahead」、「Ceora」、「PS I Love You」、「I Remember April」、「Just Out The Moment」、「Sleeping Dancer Sleep on」、「Lady Luck」、「Little Song」、「Lotus Blossom」、「All The Things You Are」、クインテットの演奏曲は「Just Because」、「Driftin’」、「Gradation」、「Panjab」、「Fiesta Mojo」、「Treasure」、「Darn that Dream」、「Black Nile」などで、江良の持ってきた幾つかの曲が披露されていた。
冒頭、松島に毎回新鮮さを感ずると述べた。得意の曲を得意のパターンで演奏するのは、アマチュアリズムの大いなる美徳である。一方、毎回新鮮さを提供するということはプロであることの美徳である。そうでなければ、次も、その次も足を運びたいという動機は生まれない。
思いっきり脱線するが、いま唐突にベンチャーズのことを想い出した。何十年も同じことを演っているのだ。つまり、ベンチャーズの最大のコピー・バンドは、ベンチャーズということになる。彼らは新鮮さを追求することは無く、一世を風靡した過去の演奏を型通りに再現する。進歩することを仕舞い込んだ音楽芸人だったのかも知れない。余計なことを思いついたせいで、プロの定義が揺らいでしまった。
(M・Flanagan)
接待の行方
山田真貴子内閣広報官が「体調不良」で突然辞職した。前日まで菅総理は続投を公言していた。週刊誌に何か別のネタをつかまれたとしか思えない。安倍総理も吉川隆盛議員も「入院」「体調不良」である。この垂れ流し報道姿勢が政治責任の追及を仮病でかわす悪弊を政治家、官僚に浸透させてしまった。怒り心頭である。菅総理がNHKに出演した際にキャスターから突っ込んだ質問をされ気色ばんだことが有った。その時「総理が大変お怒りになっている」と電話したのが山田真貴子氏である。記者会見の時にぬるい質問をする記者を指名しシャンシャンと切り上げるのもこの人の仕事である。飲み会を断らないことでここまで上り詰めてきた。
総務省総括審議官時に74000円の接待を受けた。いったい何を食べたら74000円になるのか。
絶対チャーハン大盛り+味噌ラーメンチャーシュー増量ではないはずだ。カニチャーハンかもしれない。そんなことはどうでも良い。この方は内閣報道官に抜擢された事実が男女平等の象徴として育鵬社版公民教科書に掲載されているのである。辞任した森喜朗氏の言う「わきまえた」女性と言う事である。ただの「おっさん女子」ではないのか
菅総理がどれだけ政治報道を舐め、その背後にいる国民をも舐め切っている。
付記
母親の受信契約解除にNHKに行ってきた。一回で済んだのはここだけ。携帯もそんな書類いるの・・・と言いたいところであったが抑えた。明日は本当のガスだ。ガースーではない。
宴の後
道新の連載記事にlazyのあたりの写真が載っていた。衆院選2区補選、「不戦敗が問うもの」
の資料としてである。全市に時短要請が出てlazyもライブ時間を早め10時にはシャッターを半分閉め来るはずもない客を断る姿勢を示していた。周りの様子を見に外に出た時道新の記者と目が合った。たまたまであるがその日は学生でごった返していた。時短を守らない店みたいな記事の資料にされるとまずい。中の学生を諫めた。
松島啓之と三嶋大輝を迎えての1週間の企画が終わった。実に楽しい1週間であった。学生との交流の日は30人以上店に詰め込んだ。打ち上げで作る料理作る料理があっという間に平らげられていく。久々に燃えながらフライパンを振っていた。そんな時は母の事を想い出さずに済む。毎回の事であるが大催しの後は引き潮のように客足も引く。膨大な量の洗い物をしていると気持ちがどよーんとしてくる。明日からは煩雑な事務作業と遺留品の整理をしなくてはならない。