初めてマリさんを生で聴いたのは1979年か80年の頃である。「アフロディーテの祈り」が1979年にリリースされその発売記念のコンサートであった。このアルバムは今なお日本最高のヴォーカルアルバムと思っている。僕は札幌市民会館の最前列に陣取っていた。そのライブの途中でヤンキー座りになりあまりに大人しい札幌の聴衆に半ば切れ気味に「ねえ、楽しんでくれているの・・・」と語りだした事を今でも覚えている。それから何十年経ったか覚えていない。札幌のライブハウスに来ると言う事で聴きに行った。バックは米木が居たのは覚えているので大石のトリオであったと思う。僕はいつになくはしゃいで聴いた。79年の悲劇を覚えているからだ。マリさんもその事を覚えているようでMCでその事にふれた。「今日は良い雰囲気よ」僕は札幌のリスナー代表として胸をなでおろした。打上にも参加し79年のツアーの時最前列に居たことをアフロディーテに告解した。「あら、吉田ちゃんいたの・・やあだ」それが縁でlazyでもやってくれることになった。マリさんからどういう経緯でjazzを歌うようになったかなど・・・という話を聞かせてもらった。それは日本の芸能界の誕生の話でありjazzの歴史でもある。60年代半ばにナベプロ制作の音楽番組があった。そこにはバックコーラ隊がいてメインの歌手を盛り上げていた。マリさんもバックコーラス隊の一員であった事を知った。「同期にはマリコやしんちゃんもいたのよ」まりことは「五番街のマリー」の高橋真梨子でしんちゃんとはクレヨンしんちゃんでも松原慎之介でもなく森進一の事である。ナベプロは新人を発掘しその方向性まで指導していたのだ。もしかしたら高橋真梨子が「アフロディーテの祈り」を歌いマリさんが「五番街のマリー」を歌っていたかも知れないのだ。マリさんはギターリストに育ててもらった・・・という話をよくしていた。デビューアルバム「アンフォゲタブル」の横内章次さんの事である。ギターリストに恩返しをしたいとも話していた。ブレイク前の渡辺香津美を使ってアルバムを制作しているのもそういう経緯がある。今回は札幌のギターリスト長沼タツルを使ってくれている。その内容については牛さんのライブレポートも合わせて読んでいただきたい。
余談
ヴォーカル物のライブがあるときは母親にも声をかけていた。マリさんの時も来ていた。インターバルの時マリさんが「米ちゃん、ちょっと」と呼んでいた。母親は何を思ったか危なげな足取りでマリさんのところへ.近寄った。僕はしょうがないのでマリさんと米木に母親を紹介した。2人は歯の浮くようなセリフで僕のことを褒めてくれたのである。母親はその間中頭をぺこぺこ下げっぱなしであった。母親の名前は「米子」という。僕の叔母だけが母親のことを「米ちゃん」と呼ぶ。
